かえってこないおばけ
ある日、コトリは気づきました。
まよい森の小道のわきに、いつもいたおばけの姿が、見えないことに。
白くて、かるくて、声はかすれていて、笑うと、木の葉がそよぐように音を立てるおばけ。
名前も、形も、はっきりとはわからないのに、その気配だけはたしかにそこにありました。
「おばけさん、きょうはいないのかな」
コトリは足もとで咲く小さな花に話しかけるように言いました。
けれど返ってきたのは、風の音だけ。
さらりと葉がすれる音が、かすかに森の奥へと消えていきます。
それから、何日たっても、そのおばけは帰ってきませんでした。
いつも夕方になると、森の入口で立ち止まってみたけれど、そこに漂っていた白い影も、もうどこにも見えません。
森の動物たちに聞いても、だれも知らないと言います。
姿を覚えている者も、声を聞いたことのある者もいませんでした。
まるで最初から、存在しなかったかのように。
それでも、コトリだけは覚えていました。
あの声。
あの歩き方。
あのまなざし。
「……いなくなっちゃったの?」
コトリは、夕焼けに染まる森の中でぽつりとつぶやきました。
それは、おばけがいなくなったさみしさであり、同時に、「たしかにそこにいた」と信じたい気持ちでもありました。
その夜。
月が森の枝のあいだからこぼれるころ、
コトリはひとりでまよい森の奥へと歩いていきました。
足もとでは、夜露にぬれた草がしっとりと冷たく、虫の声が、どこか遠くで、しずかに揺れていました。
空気は透明で、手をのばせば星の光に触れそうでした。
おばけがいた場所。
いっしょに座った切り株。
いっしょに散歩した道。
いっしょに見上げた枝の先。
そのどこにも、もう、おばけの姿はありません。
月明かりだけが地面にやわらかい影を落とし、風が木々をわずかに鳴らして通り過ぎていきます。
コトリは立ち尽くしました。
しずけさの中で、自分の心臓の音だけが小さく響きます。
そのときでした。
ふっと、風が吹きました。
草がそよぎ、葉がこすれ、どこからか、声のようなものが聞こえました。
「……わたし、ここにはもういないの」
それは、音にならない気配。
けれど、たしかにコトリの胸の奥にふれたものでした。
涙のようにやわらかく、でも風よりも確かに、そこに“想い”がありました。
「あなたのこと、わすれないよ。ここにいたこと、わたしが覚えてるから」
コトリは、風の流れていく方に向かって、そっと話しかけました。
返事はありません。
ただ、木々の葉が、やさしく揺れただけ。
けれど、コトリにはわかりました。
その沈黙にこそ、言葉よりも深い意味があることを。
次の日から、コトリはそのおばけがいた場所に、小さな花をひとつ置くようになりました。
白い花も、青い花も、黄色い花も。
その日の気分で選んだ野の花を、切り株のそばにそっと置くのです。
それは「ここに帰ってこなくても、ここに“いた”こと」を忘れないためのしるし。
そして、ある朝。
朝露の光る道を歩いていたコトリは、いつもの切り株の上に、ひとつの小さな羽を見つけました。
見覚えのある、透けるような羽。
指でつまむと、ひんやりとして、それでいて少しあたたかい。
きっと、風にまぎれて届いたもの。
何も語らないまま、ただそこに帰ってきた気配を残していました。
会えなくなっても、声が聞こえなくなっても、「覚えていること」は、消えたものの居場所になります。
コトリは今日も、切り株のそばに花をひとつ置き、やわらかく語りかけます。
「わすれてないよ。わたしが、覚えているからね」
その声は、森の奥へと溶けていきます。
風が通り抜けると、どこか遠くで、かすかに「くすっ」と笑うような音がしました。
きっと、あの、おばけの声。
記憶は、かたちを失っても、消えない。
思い出すたびに、それはしずかに息をふきかえす。
そして、誰かが「覚えている」と言ってくれる限り、いなくなったものは、ちゃんと“ここにいる”のです。
会えなくなっても、声がきこえなくなっても、「覚えていること」は、消えたものの居場所になります。




