星あつめの井戸
まよい森のいちばん奥。
ふだん誰も通らない細いけもの道を、月明かりだけをたよりに歩いていくと、やがて、草の海のような場所にたどりつきます。
そこに、ひとつだけ古い石の井戸がありました。
石はすっかり苔におおわれ、そのあいだから小さな白い花がひっそりと顔をのぞかせています。
木々の枝がまるで屋根のように空をおおい、昼でもほとんど光が届かないその場所で、井戸の口だけが、まっすぐに夜空をのぞいていました。
風が通るたびに、草がかすかにざわめきます。
水面のない井戸の底からは、ときどき、かすかな鈴の音のような響きが聞こえました。
その晩、森の上には、まるい月が浮かんでいました。
コトリは、月の光に導かれるように、いつのまにか森の奥深くへと足を進めていました。
足もとで落ち葉がしずかに鳴り、その音が夜のしずけさをいっそう深くしていきます。
気づけば、目の前に、あの古い井戸が立っていました。
コトリはそっと井戸のふちに近づき、中をのぞきこみました。
暗闇の奥で、きらり。
ひとつ、またひとつ、小さな光がまたたきました。
それはまるで、井戸の底に夜空が沈んでいるようでした。
光は水に浮かぶ星のようにゆらゆらと揺れ、どこからともなく、かすかな音がきこえます。
チリン、チリン。
風の音でも、水の音でもない、
けれど確かに胸の奥に響くような音でした。
「わあ……きれい……」
コトリは思わずつぶやきました。
すると、井戸の中から、やさしい声がしました。
「ひとつ、持っていく?」
コトリは驚いて身をのりだしました。
そこには、夜のかけらでできたおばけが浮かんでいました。
その姿は、光と影のあいだに生まれたしずくのよう。
輪郭はゆらぎ、透ける手のひらは星の光をそっと集めるように動きます。
おばけの目は、夜の奥に沈む星のように静かに光っていました。
「ここは、願いごとが落ちてくる井戸なんだ」
「願いごとが?」
おばけは、井戸の底に漂う星たちを見つめながら言いました。
「声にならなかった願い。忘れられた願い。かなわなかったまま消えていった願い。そんなものが、少しずつ星になって沈んでいくの」
その声は、夜気のなかにとけていくようでした。
「それって、かなしくない?」
コトリの問いに、おばけは首をかしげました。
「ううん。かなしいけど、それだけじゃないんだ。願いはね、だれかに見てもらえたとき、すこしだけ、ほんとうの星になれるんだよ」
コトリは、井戸のふちに腰をおろしました。
夜露が草を濡らし、足もとで小さな虫が鳴いています。
井戸の底の光が、ゆらゆらとコトリの頬を照らしていました。
「わたし、願いごと、ちゃんと見たこと、あるかなぁ」
おばけはしずかに手を伸ばし、その透明な手のひらに、ひとつの星をすくいました。
星はしずかに明滅し、その中には、かすれた文字のような光が、ほのかにふるえていました。
「……だれかに、やさしくされたい」
それは、きっと誰にも言えなかった、ちいさな、ちいさな願いでした。
「こんなふうに、見つけてもらえるのを、ずっとずっと、ここで待っているの」
おばけは、すこしだけさみしそうに笑いました。
「……じゃあ、わたし、星を拾う人になる」
コトリはまっすぐに言いました。
「見えない願いも、消えかけた願いも、ちゃんと目をこらして見つけて、“ここにあるよ”って言ってあげたい」
おばけの目が、ふっとやわらぎました。
「それなら、この星を持っていって」
「この星?」
「あなたの胸で、光を忘れないでいてくれるなら、その願いは、きっともう“かなった”ことになるから」
おばけは両手をそっと差し出しました。そこに浮かぶ星は、淡く、でも確かに光っていました。
コトリは、両手でそれを受けとりました。
星はほんのりとあたたかく、指先に、だれかのぬくもりが残るようでした。
森を出るころ、夜の霧が少し晴れていました。
ポケットの中で、星はことことと光っています。
歩くたびに、その光が衣のすそを照らし、道しるべのようにコトリを導いていました。
「わたし、ちゃんと覚えてるよ。あなたの声にならなかった願いを」
コトリは心の中でそっとつぶやきました。
その声は風に乗り、遠い井戸の方へ帰っていきました。
夜空では、ひとつの星が、ゆっくりと流れていきました。
それはきっと、見つけてもらえた願いのひとつ。
願いは、かなわなくても、のこる。
そして、だれかがそれを見つけてくれたとき、その願いは、もう一度、光になれるのです。




