うしろむきのおばけ
ある霧の朝。
まよい森は、まるで息をひそめているようにしずかでした。
木々の枝には露が光り、草の先から、白い霧がゆっくりと立ちのぼっていました。
風はなく、鳥の声もなく、ただ遠くで水の滴る音だけが響いています。
コトリは、その霧の中を歩いていました。
見慣れたはずの道も、今日はどこか違って見えます。
空と地面の境がぼやけ、世界がやわらかく溶けあっているようでした。
そのとき。
霧の向こうに、ひとつの影が見えました。
白く透けた肩、細くふるえる輪郭。
まるで霧の一部が形をとっているようでした。
けれど、その影はどこを向いても、決してこちらを振り返りません。
「こんにちは」
コトリが声をかけました。
けれど、返事はありません。
おばけは、ゆっくりとまよい森の奥へ、にじむように歩いていきました。
その背中が、どうしようもなくさみしそうに見えて、コトリはそっと、そのあとを追いかけました。
霧の中をしばらく歩くと、足もとに枯葉がしっとりと音を立てました。
森の奥には、倒れた木の根元があり、そのそばに、おばけは腰をおろしました。
背中を丸めて、ぽつんと座っています。
その背中の輪郭が、霧の中にすこしずつとけこんでいくように見えました。
「ずっと、そっちを向いたままなの?」
コトリがしずかにたずねました。
しばらくの沈黙のあと、かすかな声が返ってきました。
「うん……うしろを向いていれば、見られないから」
「なにを?」
「……顔も、目も、ことばも」
その声は、風が吹くよりも弱く、けれど確かに震えていました。
コトリはなにか言おうとしましたが、うまく言葉が見つかりませんでした。
おばけはそれを待たず、ぽつりと続けました。
「わたしがどんな姿か、知られないようにしてるの。そうすれば、きっと……きらわれずにすむから」
その言葉に、コトリの胸がきゅっとなりました。
誰かに見られるのがこわくて、傷つけるのも、傷つくのもこわくて、だから、ずっと背中だけを見せて生きてきた。
それが、この“うしろむきのおばけ”でした。
けれど、霧のなかに座るその姿は、ただの恐れではなく、どこか、「見つけてほしい」という願いを、かすかににじませていました。
「それでも、ここにいるってことは、ほんとうは、だれかに見てほしいのかな?」
コトリがそう言うと、おばけの肩が、すこしだけふるえました。
「……ほんとうは」
おばけは言葉を選ぶように、ゆっくりつぶやきました。
「ほんとうは、『大丈夫だよ』って、だれかに言ってほしいの。うしろを向いたままでも、ちゃんとそこにいるって、思ってほしい」
その声は、まるで霧の奥にしみこんでいくようでした。
コトリはおばけの隣に、しずかに腰をおろしました。
ふたりの背中が、かすかにふれるくらいの距離。
同じ方向を向いて、霧の白い世界を見つめます。
すぐそばで、森の水滴がひとつ落ちました。
それが音のかわりに、「ここにいるよ」と言っているようでした。
「わたし、あなたのこと、ちゃんと“ここにいる”って思ってるよ」
コトリは、ゆっくりと話しました。
「うしろを向いていても、あなたのやさしさが伝わってくるから」
おばけは、長いあいだ黙っていました。
やがて、ほんのすこしだけ、ふり返ろうとしました。
霧の中で、肩のラインがゆらぎ、見えない涙がひとしずく、草の上に落ちました。
「ありがとう」
その声は、震えていましたが、たしかに“こちらを向こうとする勇気”をふくんでいました。
おばけは、立ち上がりました。
今度は、コトリと同じ方向に向かって歩き出します。
その背中はもう、ほんの少しだけ、光をまとって見えました。
霧のむこうから、朝の陽が差しはじめていたのです。
ふたりの影が、白い光のなかで並びました。
それは、ほんの短い時間のことでしたが、おばけの背中が少しだけ“前へ”動いたその瞬間、森の霧の奥で、ひそかにひとつの花がひらきました。
人は、いつも前を向いて生きていけるとは限らない。
ときには、うしろむきのまま、立ち止まることもある。
でも。
そんなとき、「見てるよ」とそっと言ってくれる誰かがいれば、人も、おばけも、すこしずつ前へ歩いていけるのです。




