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わらう木

 ある昼下がりのこと。

 陽ざしはやわらかく、森の道にまだらな影が落ちていました。

 コトリは、まよい森の小道をゆっくり歩いていました。

 足もとには、春の草が小さくそよぎ、空には淡い雲が流れています。


 そのときです。

 森の奥のほうから、ふいに小さな音が聞こえました。

「くす……くすくす……」

 それは、風でも鳥でもない音でした。

 どこかかすれていて、でもたしかに、わらっている声。

 耳をすませばすますほど、その声は森の中で跳ねるように広がっていきました。

 コトリは不思議になって、音のするほうへ歩き出しました。

 木々の間をぬけると、そこには一本の大きな木が立っていました。

 幹は太く、何百年もそこにいるような風格がありました。

 表面には深いしわが走り、節が古い目のように並んでいます。

 枝は空へくねるようにのび、葉は春なのにひときわ濃い緑。

 風が吹くたび、その葉がこすれあって低く笑うように音を立てました。

「くす……くすくす……」

 コトリが近づくと、その音がいっそうはっきりしました。

 まるで、木がコトリを見つけて笑っているかのようでした。

「こんにちは」

 コトリがあいさつすると、すぐに木の中から「くすくす」と笑い声が返ってきました。

「いま、わらった?」

 そうたずねた瞬間。木の幹が、ごとりと小さく動きました。

 その表面がゆっくりと割れ、裂け目の奥から、ひとつの目がのぞきました。

 それはやわらかな光を宿した目で、まるで深い泉のように澄んでいました。

「あら、見つかっちゃった」

 木が、話したのです。

 それは、この森にすむ「わらう木のおばけ」でした。

「どうしてわらってたの?」

 コトリがたずねると、木のおばけは枝をふるわせながら答えました。

「だれかがね、わたしの下を通ると、ふっとそのひとの“こころの音”が葉っぱに伝わるの。それがくすぐったくて、わたし、ついくすくすってわらっちゃうのよ」

「こころの音?」

「そう。話していなくても、笑っていなくても、人の中には音があるの。あたたかい音、さみしい音、やさしい音……それが風にのると、葉っぱが感じるの」

 コトリは目を丸くしました。

「じゃあ、さっきわたしが通ったときも?」

「うん。あなたの音、なんだかあったかかったわ。ちょっとだけさみしそうで、でもやさしくて……そういう音ってね、葉っぱがよろこぶの」

 木のおばけは、ゆっくりと枝をひらいて、上から春の光をふらせました。

 葉のあいだからこぼれる光が、まるで笑い声のかけらのようにコトリの髪に落ちます。

「ずっと、ここに立ってるの?」

 コトリがそう聞くと、木のおばけは静かにうなずきました。

「ええ。風が吹いても、雪が降っても、わたしはここにいる。誰も話しかけない日が何年つづいても、ね。でもね、ときどき、遠くからこころの音が聞こえてくるの。それだけで、“ひとりじゃない”って思えるの」

 その声には、ひそやかな誇りと、やさしい孤独がありました。

 コトリは、そっと幹に手をあてました。

 ざらざらとした木肌が、すぐにじんわりとあたたかくなっていきます。

 すると木は小さく身じろぎして、枝の先の葉がふわりとゆれました。

「……くす、くすくす」

 木がまた、笑っています。

 その笑いは、春の光のようにやわらかくて、コトリの胸の奥まで届くようでした。

「わたし、またここに来てもいい?」

「もちろん。あなたが来てくれるなら、わたしの葉っぱは、もっとたくさんわらえると思うの」

 コトリは小さく笑いました。

 その笑い声が風にのって、枝をわたると、木のおばけもいっしょに、くすくすと笑いました。

 その音は、森の奥までひろがっていき、まるで春の精が小さなベルを鳴らしたように、きらりと光りました。


 その日から、コトリはときどき、しずかにこの木を訪れるようになりました。

 とくに風のやむ昼さがり。

 木のもとに腰をおろして、ただ空をながめているだけで、

 どこからともなく「くすくす」とやさしい笑い声が聞こえました。

 ことばは少なくても、

 そこに流れているのはたしかな会話でした。

 木とひとりの子どもが交わす、音のない手紙のような、深くてやさしい時間。

 わらい声は、風よりもやさしい手紙。

 声にしなくても、だれかと心を通わせることができる。

 葉がゆれるたび、森のどこかで、今日もまた、くすくすと、世界がわらっているのです。


 そんな出会いが、まよい森にはひそやかにあるのです。

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