ふゆのドアとコトリ
春のきざしが、ようやく森のかげに宿りはじめたころ。
まよい森の空気には、まだ冬の名残りがすこしだけ残っていました。
陽ざしはやわらかいのに、風はまだ冷たく、木々の先では、霜がひっそりと息をしているようでした。
そんな日の午後、コトリは小道を歩いていて、ふしぎなものを見つけました。
道の真ん中に、ぽつんと、ひとつの扉が立っていたのです。
壁も家もないのに、そこだけに、古びた木の扉がありました。
苔のはえた地面に、まるで誰かが忘れていった記憶のように。
扉の木目は長い時間を過ごしたようにやさしく削れ、取っ手は鈍く光る銀色で、触れたら冷たそうに見えました。
そのそばの小さな札には、こう書かれていました。
「この先は、ふゆのせかい。
いちどだけ、のぞいてもかまいません。」
コトリは立ち止まりました。
耳をすますと、森の音が少し遠のいたように感じました。
空気がしずまり、世界が息をひそめています。
ゆっくりと取っ手に手をかけると、カチリ、と金属の小さな音が鳴りました。
扉が少しだけ揺れ、そこから冷たい空気がこぼれ出しました。
そして、目の前に、白い森が広がりました。
そこは、まるで時間が止まったような静けさの世界でした。
雪は深く積もり、枝の一本一本まで白く染まっています。
音という音はすべて雪の中に吸いこまれて、ただ、遠くの空でかすかに光が揺れる音だけがしていました。
コトリは、一歩踏み出しました。
靴の底が雪を押す音。
ぎゅっ、ぎゅっ。
その音が、この世界でただひとつの現実のしるしのようでした。
息を吐くと、白いかすみが浮かんで、すぐに消えました。
けれど、不思議と寒くはありません。
冷たいのに、やわらかい。
どこか、なつかしいような温度がありました。
しばらく歩いていると、足もとに何かの跡が見えました。
丸く、小さく、ふたつずつ並んだ足あと。
それは、どこかで見たことのある形でした。
「……あ」
コトリは、すぐに思い出しました。
かつて冬の終わりの日に出会った、あの雪のおばけ。
ひとりで、だれかを待っていた雪だるまのおばけの足あとでした。
足あとをたどっていくと、雪の木立の奥に小さな光が見えました。
それはランプのようでもあり、星のようでもありました。
光のそばには、ひとりのおばけが立っていました。
雪の粒でできた体がほのかに透けて、胸のあたりで淡い灯りがゆらゆらと揺れています。
「また、来てくれたんだね」
その声は、雪を通して届くような、遠くてやさしい響きでした。
「この世界はね、冬が残していったものたちの場所なんだ。春になるとみんな消えてしまうけれど、ここでは、最後のひとときだけ、もういちど会えるの」
コトリはうなずきました。
「わたし、忘れてないよ。あなたがずっとだれかを待っていたこと。ちゃんと見てもらいたいって願っていたことも」
おばけは目をふせ、微笑みました。
雪の粒がほろりと肩からこぼれ、そのまま光になって消えました。
「ありがとう。あなたが覚えていてくれたから、わたしはまだ、ここにいるんだよ」
「でも……もうすぐ、このドアもしまるの?」
コトリがたずねると、おばけは小さくうなずきました。
「うん。春が近いからね。風の匂いがもう違うもの。でもね、大丈夫。わたしはまた、次の冬に生まれてくる。雪が降って、森が静かになったら。また、だれかが見つけてくれるまで、ここで待つの」
その言葉を聞いて、コトリはそっと手をのばしました。
おばけの肩にふれると、雪の光がやわらかく手のひらに溶けました。
冷たいのに、ふしぎとあたたかい。
それはまるで、冬そのものの心の温度のようでした。
「じゃあ、またね。わたし、またちゃんとここに帰ってくる」
おばけはうれしそうに目を細めました。
そして、森の向こうで風が変わりました。
扉の向こうから、春の風が吹きこんできました。
ひとすじの陽ざしが雪の上にのび、白い森を淡い金色に染めました。
その光の中で、おばけの姿はゆっくりと、やさしく溶けていきました。
最後に聞こえたのは、風のような声。
「たとえ消えても、めぐってくる。それが冬であり、記憶であり、やくそくなんだよ……」
雪の粒がひとつ、コトリの髪に落ち、指先で触れると、すぐに消えて、でも、あたたかさだけが残りました。
ふと気づくと、コトリはもとの森に立っていました。
足もとには扉がありましたが、しずかに、音もなく閉じていました。
そしてそのまわりには、もう何もありません。
ただ春の風が吹きぬけ、遠くで小鳥が鳴きはじめていました。
けれど、コトリの胸のなかには、雪よりも白く、春の光よりもやさしい、ひとすじのあたたかな灯りがのこっていました。
いなくなっても、また会える。
終わりは、めぐりのはじまり。
季節のように、記憶のように。
だから私たちは、今日という日をたいせつに歩くのです。
いつかまた、あの扉のむこうで。
すべての「さよなら」が「またね」に変わるその瞬間を信じながら。




