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なまえのない日

 その日は、朝から、ふしぎなしずけさに包まれていました。

 鳥たちは鳴かず、風の音もなく、森の木の葉はうすい膜に覆われたみたいに動かず、世界が息をひそめていました。


 コトリは、いつものように目を覚まし、布団の中で小さく伸びをしました。

 そしていつもと同じように、「おはよう」と言おうとしました。

 けれど、その音が出てきませんでした。

 口をひらいても、のどの奥が空洞のように感じられ、

 思い浮かべるはずの自分の名前が、どこにも見つからなかったのです。

「……あれ?」

 その瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚がありました。

 音のない名前。

 それは、まるで影のない影のようで、掴もうとしてもすり抜けていきました。

 鏡の前に立つと、映っているのはたしかに「自分」でした。

 けれど、目の奥が少しだけ知らないだれかのように見えました。

 笑ってみても、声がないと笑いは形だけ。

 その姿は、どこか「借りもの」のように思えました。

 外に出ると、友だちが手を振ってくれました。

「あれ、ねえ、だれだっけ?」

 冗談のような言葉に、コトリは答えられませんでした。

 言葉を探しても、喉の奥から出てくるのは空気だけ。

「わたしは……わたし、だけど……ほんとうにそうって、どうやってわかるんだろう?」

 その問いを抱いたまま、コトリは足の向くままに、まよい森の中へと歩き出しました。


 森の奥は、まるで世界の音を忘れた場所のようでした。

 鳥の声も、水のせせらぎもなく、ただ光だけが枝のあいだからこぼれていました。

 その光の中で、コトリはひとりの「おばけ」に出会いました。

 それは、やわらかい霧のような姿をした、形のないおばけでした。

 見るたびにかたちが変わり、手のようなものが伸びたり、淡い輪郭がふわっと消えたり。

 まるで名前のない存在そのもののようでした。

「こんにちは」

 コトリがそう言おうとしたとき、おばけのほうが先に言いました。

「あなたも……なまえをなくしたの?」

 おばけの声は、風のようにやさしくて、聞こえたあとに少し遅れて胸の奥にしみこんでくる感じでした。

「うん。朝、気づいたら、わたしのなまえがどこかへ行ってしまってて……」

「そっか」

 おばけは、ゆらゆらと空気にとけるようにうなずきました。

「わたしも、むかしはあったと思う。でも、だれにも呼ばれなくなったから、音のかたちを忘れてしまったんだ」

「なまえって、そんなに大事なの?」

「きっとね。なまえは、呼ばれることで育っていくものだから」

 おばけは、手のかわりに霧のしずくを空中に浮かべ、それを指でなぞるように言いました。

「だれかが呼んでくれたとき、そこに“わたし”がうまれるんだ」

「でも……じゃあ、だれも呼んでくれなかったら?」

 コトリの声が小さく震えました。

 おばけは、ほんの少しの沈黙のあと、ふわっと笑いました。

「そのときはね、自分で自分を呼ぶんだよ」

「自分で?」

「うん。わたしがわたしになまえをつけるの。たとえ小さくても、自分を信じるために」

 コトリは、しばらく考えこんでいました。

 森の風がやさしく髪をなでていきます。

「……じゃあ、わたしも、今日だけ新しいなまえをつけようかな」

 おばけは少し驚いたように目を丸くしました。

「わたしとして、ちゃんと歩いてみたい」

 そう言って、コトリは小さくつぶやきました。

「今日のわたしは……『ヒカリ』になろう」

 その瞬間、胸の奥がぽっと灯りました。

 名前を声に出すと、音がまるで体の中を巡るように感じられ、空っぽだった心がひとすじの光で満たされていくようでした。

 おばけはうれしそうに言いました。

「ヒカリ。いいなまえだね」

 そして、すこし照れたように笑って言いました。

「じゃあ、わたしも今日だけ、『カゼ』って名のるよ」


 ふたりは、ヒカリとカゼとして、森の小道をいっしょに歩きました。

 木の間をすり抜ける風が、ふたりのあいだをやさしく行き来し、葉っぱの上では小さな光がきらきらと踊っていました。

 カゼは、風に混じって草の香りや花の粉を運びながら、いろんな話をしました。

「なまえがあると、音が生まれる。音があると、記憶が生まれる」

「じゃあ、なまえは“思い出”のはじまりなんだね」

 ヒカリがそう言うと、カゼはうれしそうに笑いました。

 森の出口が近づくころ、風が少しだけ冷たくなりました。

「ヒカリは、明日にはまた元のわたしに戻るの?」

「うん……たぶんね」

 ヒカリは少し考えてから言いました。

「でも、今日の“ヒカリ”も、ちゃんとわたしだったってこと、忘れないようにする」


 その夜、空にはうすい月がかかっていました。

 風がカーテンをやさしくゆらし、窓の外で森がしずかに息づいています。

 コトリは、布団の中で目を閉じました。

 遠くで、風の音がかすかに聞こえました。

 それはまるで、「おやすみ、ヒカリ」と呼ばれているようでした。


 そして、朝。

 目を覚ましたとき、胸の奥に懐かしい音が帰ってきました。

 コトリ。

 なまえは、もうそこにありました。

 でも、前よりもすこしあたたかく、やさしい響きになっていました。

 コトリは知っていました。

 なまえは、呼ばれるだけではなく、名のることでも生まれる。

 わたしは、わたしであることを、いつでも選びなおせる。

 そしてその日は、たしかに“ヒカリ”として生きた、もうひとつのわたしの記憶になったのです。

「だれかに呼ばれる名前」と「自分で名のる名前」、そのどちらも、ほんとうの自分をつくる音。


 だから、名前を忘れた日があっても大丈夫。

 そのしずけさの中で、きっとまた、自分を呼び返す声が聞こえてくるのです。

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