だれも見ない図書室
まよい森の西のはずれに、ひっそりと石造りの小屋がありました。
風にけずられた扉は灰色にくすみ、屋根の上には苔がびっしりと生え、窓には細いくもの巣が銀の糸のようにかかっていました。
まるで、時そのものがここで足を止めているようでした。
そこは、だれも訪れなくなった図書室でした。
コトリは、その建物を偶然見つけました。
小道の脇にぽつんと立つ石の小屋。
風が止み、森のざわめきがふっと遠のいた瞬間、その小屋の扉の前に立っていたのです。
扉をそっと押すと、長いあいだ閉ざされていた蝶番が、かすかに「きぃ」と鳴きました。
中からは、紙とインクのにおい、そして時間の粉のような匂いがふわりと流れ出しました。
ほこりの粒が光をまとって舞い上がり、ゆるやかに空中でゆれていました。
中には、高い天井まで届く古い本棚がならび、色あせた背表紙たちがしずかに並んでいました。
どの本も少しうつむいたように、読まれる日を待っているように見えました。
「こんなにたくさん……」
コトリは小さくつぶやきながら、そっと指先で背表紙をなぞりました。
「だれも、もう見に来ないのかな」
そのときでした。
コトリが一冊の本を取り出そうとした瞬間。
本棚のすき間から、紙のように薄い手が、すうっとのびてきました。
空気がひとしずく震え、しずかな声がしました。
「……ひさしぶりに、誰かがページをめくってくれる」
そこにいたのは、図書室の本のおばけでした。
おばけの体は、古い紙のように透けていて、ところどころに文字が浮かんでいました。
しおりのリボンのような長い首がゆらゆらと揺れ、胸の奥には小さな光の粒が灯っていました。
その光は、まるで「まだだれかに読まれたい」という気持ちの名残のようでした。
「わたしは、この図書室の番人」
おばけはやわらかな声で言いました。
「でも、長いことだれも来なかったから……みんなの『お話』は、だんだん眠っていったの」
「読まれないと、お話は眠ってしまうの?」
コトリは、胸の前で本を抱きしめながらたずねました。
「うん。声に出されない言葉は、すこしずつ夢になる。夢になったお話は、やがて忘れられてしまうの」
コトリは、そっと手に取った本を開きました。
ページは薄く、指のあいだからこぼれる光に透けて見えました。
めくった瞬間、紙の間から、小さな光がふわっとあらわれました。
それは、眠っていた本が目を覚ました瞬間でした。
おばけは、ふんわりと笑いました。
「ありがとう。たったひとりでも読んでくれる人がいれば、お話は、また呼吸をはじめるの」
その日、コトリは図書室で何時間も過ごしました。
陽の光が高い窓から差しこんで、棚のあいだに金色のすじをつくり、ゆっくり動いていきました。
コトリはその光の中で、ひとつひとつの本を開きました。
物語を声に出したり、心の中でつぶやいたり。
ページの音が、風のように静かに響き、時折ほこりがきらめきながら舞いあがりました。
おばけはコトリのそばに座り、やさしい目でページを見つめていました。
ときどき、涙のような紙くずがぽろぽろと落ち、それが床の上で光の粉に変わりました。
夕方。
窓から差す光が赤くなり、森の影が長く伸びるころ、コトリはそっと本を閉じました。
「また来るね。この場所、とても大事な気がするから」
おばけはうなずいて、ゆっくりと一冊の本を差し出しました。
表紙には、タイトルも名前も書かれていません。
ただ、うすい灰色の紙の上に、ひとすじのしおりの糸だけが結ばれていました。
「この本は、まだ読み手を持たないお話。もし、あなたの中でひとつでもなにかが生まれたら、この本に、それをつづってくれる?」
コトリは、その本を両手で受け取りました。
手のひらのなかで、本がかすかにあたたかく感じられました。
外に出ると、森の空気がしっとりとしていて、どこかすがすがしい匂いがしました。
振り返ると、古い小屋の窓から、やわらかな光がひとすじもれていました。
その光の中で、おばけがしずかに手をふっているように見えました。
コトリは胸に本を抱いて、森の小道を帰っていきました。
その本の中には、まだ何も書かれていません。
けれど、それはもう、眠っているだけのお話ではありません。
ページの奥で、しずかに息づいていました。
これから始まる、だれかの物語として。
忘れられたものにも、まだ命がある。
読まれなかった物語も、聞かれなかった声も、だれかと出会うとき、また息をふき返すのです。




