ことばをなくした日
ある朝、コトリは目をさますと、まどの外がしっとりと白くけぶっているのに気づきました。
霧のような朝。葉のすき間からこぼれる光はやわらかく、鳥の声も、遠くで小さくゆらいでいました。
いつものように、布団の中でのびをして、「おはよう」と言おうとしたそのとき。
声が、出ませんでした。
喉は痛くもなく、かすれた感じもありません。
けれど、声のかたちだけが、空気のなかに溶けていって、音にならないのです。
(……あれ? おはよう)
唇が動いても、音は生まれません。
(どうしたんだろう。ちゃんと息をしているのに)
しずまりかえった部屋のなかで、時計の針の音だけが「コチ、コチ」と響きました。
ことばのない朝。世界が、いつもより少し遠くにあるように感じました。
コトリは声が出ないまま、まよい森へ向かいました。
霧はまだうすく森の奥にたなびいていて、木々の葉の先から雫がひとつ、またひとつ落ちては、しずかな音を立てていました。
鳥たちにあいさつしようとしても、声が出ないと気づいてもらえません。
いつもなら「ピピッ」と返してくれる小鳥も、ただ枝の上で首をかしげるだけ。
ことばがないと、森の色も、どこか冷たく感じられました。
コトリは、いつもの小道を歩きながら思いました。
(声が出ないって、こんなにさみしいことだったんだ……)
そのときです。
霧の奥、音のない池のほとりに、すうっと、白い影が立っていました。
それは、何も話さないおばけでした。
おばけは、風のように透きとおった体をしていて、あたりの空気を少しゆらすように浮かんでいました。
コトリが近づくと、おばけは顔をかしげ、手をゆっくり広げて見せました。
それは、まるで「おいで」と言っているようでした。
けれど、おばけも声を出しません。
代わりに、指先で地面にすっと線を描きました。
それは、笑っているコトリの顔。
コトリはびっくりして、思わず胸を押さえました。
そして、自分もしゃがみこんで、土の上に小さな花を描きました。
おばけは、目をまるくしてうなずき、花のとなりにてのひらのかたちを描きました。
それはまるで、「ありがとう」と言っているみたいでした。
ことばがなくても、ちゃんと気持ちは届くのだと、コトリは思いました。
それから、ふたりは何もしゃべらずに、しばらく地面に絵を描きつづけました。
コトリが太陽を描くと、おばけはその上に小さな雲を描き、おばけがご飯の絵を描くと、コトリはお腹を押さえて笑いました。
音はなくても、笑いは確かにそこにありました。
木々の葉ずれ、遠くで落ちる雫の音が、ふたりの会話を包みこんでいました。
時間の流れはとてもゆっくりで、夕方が近づくころ、池の水面に、金色の光がひろがりました。
おばけは小さく手をふり、やがて水の光のなかにとけるように、すうっと姿を消しました。
残ったのは、淡くゆらめく波紋と、胸の奥にのこった、ひとつの気持ちでした。
伝えようとする心が、いちばん大事なんだ。
次の朝、コトリの声はもどっていました。
寝ぼけたまま、「おはよう」と言った瞬間、音がふたたび世界に戻ってきたことが、胸いっぱいに広がりました。
でもコトリは、あわてて言葉をつづけることはせず、しずかに窓の外を見つめました。
「伝えるって、ことばだけじゃないんだね」
風が葉をゆらし、鳥の声が遠くで響きました。
音のある朝も、音のない日も、世界はちゃんと耳をすませてくれている。
そう思うと、コトリはそっと笑いました。
声がなくても、気持ちは伝わる。
ことばがあっても、伝えられないこともある。
けれど「伝えたい」と願う心さえあれば、世界はきっと、その小さな願いに耳をすませてくれるのです。




