にじのなかでまってるおばけ
春の雨がやんだ午後、森のあちこちに、しっとりと水の匂いがただよっていました。
木々の枝から、ぽたり、ぽたりと雫が落ちるたび、地面の草が小さくゆれます。
空の向こうには、雲の切れ間から陽がのぞき、やがて、ひとすじの光が、森の空気を染めはじめました。
その光は、すぐに七色へと広がっていきました。
青、緑、黄、そして赤。
透明な空気の中でそれらがひとつにつながり、空の高みから森の奥へ、まあるく大きな虹がかかりました。
コトリは、小道をのぼる途中で立ち止まりました。
虹の端が、森の古い木のそばに落ちているのが見えたのです。
まるで誰かが、そこへしずかに糸をたらしたように。
「にじのはしっこって……ほんとうにあるんだ」
息をのむようにつぶやいて、コトリはそっと歩を進めました。
近づくにつれ、光がやわらかく揺れ、霧のように肌をなでていきます。
そして、その中に、ひとつの影が立っていました。
虹の光をまとう、おばけでした。
透きとおる体のなかを、七色の光がゆっくりと流れていきます。
風にゆらめくたび、淡い光の層がほどけて、草や葉の上に散っていきました。
けれど、その瞳はどこかさみしげで、まるで、長いあいだだれかを待っているように見えました。
「こんにちは」
コトリが声をかけると、おばけは顔を上げ、しずかにこちらを見ました。
光の中に、うっすらと笑みがうかびます。
「あなたは……にじのなかにいたの?」
そうたずねると、おばけは小さくうなずきました。
「わたしは、虹のあいだだけにあらわれるおばけ。雨がやんで虹が出るとき、少しのあいだだけ、この世界にいられるの」
その声は、雨上がりの風のように、やわらかく耳の奥にしみていきました。
「だれかを、待っているの?」
コトリがきくと、おばけは、少しだけ視線を落としました。
「うん。むかしね、ひとりの女の子が、わたしを見つけてくれたの。『また会おうね』って言ってくれた。でも、それっきり……雨が降っても、虹が出ても、その子にはもう会えなかったの」
おばけの肩が、淡い光の粒といっしょにかすかにふるえました。
七色の光のなかで、その姿が切なげににじみます。
「それでも、わたしは待っているの。だって、『またね』が、ほんとうだったと信じたいから」
その言葉を聞いたとき、コトリの胸が、ぎゅっとしめつけられました。
その気持ちは、森のどこかの風の音にも似ていました。
だれもいない道を歩くときの、あのすこし心細い、それでもやさしい音。
「……その子、きっとあなたの『またね』を覚えてるよ」
コトリがそう言うと、おばけはかすかに笑いました。
「ううん。もう、その子が来なくても大丈夫。きょう、あなたが話しかけてくれたから。わたしを見つけてくれる人が、たしかにいたって思えたの」
空を見上げると、虹の色が少しずつうすれていきました。
光がほどけ、森の影がまた形を取りもどします。
「そろそろ、わたし、いなくなるみたい」
おばけは、小さな声でつづけました。
「でもね、ひとつだけお願いがあるの」
「なに?」
「この場所を、ときどき思い出して。そして、だれかに、『虹のなかに、おばけがいたよ』って、伝えてほしいの。それだけで、わたしは、ほんとうにここにいたことになるから」
コトリは、まっすぐにうなずきました。
光の粒が頬に触れ、少しあたたかく感じました。
「うん。わたし、ちゃんと伝えるよ。きみの光が、ここにあったこと。だれかを待ちつづけた、そのやさしい気持ちが、この森に残っていたこと」
おばけは、ほっとしたように微笑みました。
その笑顔は、虹そのものよりもしずかで、美しい光でした。
やがて、虹が消えるころ、おばけの姿も、風のなかにとけていきました。
だけど、そこにはふんわりと七色の光の粒がいくつも浮かび、まるで「ありがとう」と言っているように、やさしくきらめいていました。
その日から、コトリは雨上がりの空を見るたびに思い出します。
虹のなかで待っていた、おばけのことを。
出会いには、時間の限りがある。
でも、ほんのすこしのあいだでも、心がふれあえば、それはたしかな「出会い」になるのです。




