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さかさ森のまよい子


 その日、まよい森は、ひどくしずかでした。

 風ひとつ吹かず、木の葉の一枚すら動きません。

 小鳥のさえずりも、どこかへしまわれたように消えていて、森じゅうがひとつの深い息を止めているようでした。

 空はうすく白んでいて、まだ朝なのか、もう夕方なのかも分からない。


 そんなふしぎな光の中を、コトリは歩いていました。

 ふだんは通らない小道を、なんとなく曲がっただけのつもりでした。

 けれど、気づいたときには、あたりの風景が少しずつ変わりはじめていました。

 木々の影が、奇妙にねじれ、小川のせせらぎが、ふいに高い空のほうから聞こえてきます。

 足もとに落ちていた落ち葉が、ふわりと浮かびあがって、ゆっくりと空へ登っていきました。


 そのとき、コトリはようやく気づいたのです。

 ここは、すべてがさかさまの森。

 幹を逆さに伸ばした木々、空へと流れゆく水、

 ひっくり返った影と光が混じりあう、ふしぎな世界。

 コトリの胸の奥がすこしひやりとして、声を出そうとしました。

「だ……だれか、いないの?」

 けれど、その声はふしぎな音になって、

「のいない、かれだ……だ」

 と、最後の音からさきに聞こえたのです。

「……え?」

 自分の声なのに、まるで知らないだれかが話しているよう。

 言葉が戻ってくるたびに、コトリの胸の奥で、時間が逆流するような感覚がしました。

 木々の間で、音がぐるぐると反対向きにめぐり、世界そのものが裏返ってしまったようでした。

 コトリは、こわごわと歩きつづけました。

 すると、森の奥のひらけた場所で、小さな光がゆらめいているのが見えました。


 近づいてみると、そこにいたのはひとりの子ども。

 ぼさぼさの髪に、夜空みたいに深い瞳をしたその子は、まるで森の影が形をとったような、不思議な存在でした。

 子どもは、手にひかる棒のようなものを持っていて、にこっと笑いながら言いました。

「これ、触ってみて」

 コトリがそっと指先で棒に触れると、ぱちりと小さな音がして、空気がふわっと動きました。

 その瞬間、音が、正しい向きにもどったのです。

「きみも、まちがって入っちゃったの?」

 はじめて聞こえた、まっすぐな言葉。

 コトリはほっとしてうなずきました。

「そうみたい……気がついたら、全部がさかさまで」

 子どもは少し首をかしげて、笑いました。

「ぼくはちがうよ。ぼくはずっとここにいる。うまれたときから、さかさまの世界しか知らないんだ」

 森の光が、子どもの頬をやさしくなでていました。

 その瞳の中では、世界が逆さにゆれているように見えました。

「きみの森のほうが、ぼくにはまちがって見えるよ」

 その言葉に、コトリははっとしました。

「じゃあ……さかさまって、どこからが正しいんだろう」

 子どもは、小さく肩をすくめて答えました。

「どっちがほんとうでも、いいんだよ。たいせつなのは、自分のいる場所が“自分の居場所”かどうかってことだけ」

 その声は、森の底にまでしみこむように静かでした。

 コトリの胸の奥で、何かがちくんと痛みました。

 ちゃんと帰れるかな。

 わたし、まちがったのかな。

 そんな不安を、いつのまにかぎゅっと握りしめていたのです。


「……帰り道、わたし、わかるかな」

 コトリがつぶやくと、子どもはポケットから小さな鏡を取り出しました。

 鏡のふちは、葉っぱの蔓でできていて、光を受けるとすこしだけ青く光りました。

「この鏡をのぞいてごらん。そこにうつる“まっすぐな道”が、ほんとうにきみが帰る道だよ」

 コトリは、鏡をそっとのぞきこみました。

 そこには、さかさまになった自分ではなく、おびえながらも一歩を踏み出そうとする“小さな自分”がうつっていました。

 鏡の中の自分は、ふるえながらも、ちゃんと前を向いていました。

 それは、道を知っている人の顔でした。

 コトリは、静かに立ちあがりました。

「ありがとう。この鏡、きっと本当のわたしを見せてくれた」

 子どもは、やさしく目を細めて言いました。

「うん。また迷ったら、おいで。さかさの世界は、いつでも“ほんとうの自分”をうつしてくれるから」

 その言葉を最後に、森の風がようやく動きだしました。

 空に流れていた小川が、すうっと地面へ降りていきます。

 逆さの影たちが、しずかに元の向きにもどっていく。

 音が、光が、世界が、ゆっくりと呼吸を取りもどしていきました。


 コトリは、鏡を胸に抱きしめて、小道をたどりました。

 そして、気づけばそこは、いつものまよい森の入り口。

 夕陽の光が、やわらかく木々の間を照らしています。

 コトリは振り返りました。

 森の奥で、さかさ森のまよい子が、風の向こうから、しずかに手をふっているように見えました。


 ときどき、人は、自分のいる場所が反対に見えることがある。

 けれど、それはまちがいじゃない。

 それは、見え方のひとつ。

 迷ったときは、だれかがくれた小さな鏡のような言葉が、ちゃんと、自分を照らしてくれるのです。

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