ふたりぶんの影
春の朝。
まよい森の木々は、やわらかな芽をひらきはじめていました。
湿った土のにおいと、ほのかな花の香りが、ひとつの空気になって森を満たしています。
小道のうえには、まだ朝露をたたえた草が光り、鳥たちの小さな声が遠くから聞こえてきました。
ひかりは、まだ冬の名残をつれているけれど、どこかやさしく、肌にふれると、ひそやかに溶けるようでした。
コトリは、ひとりでその小道を歩いていました。
歩くたびに、靴の下で落ち葉がうすく鳴り、風が木々を通りぬけて、葉の影がふわりと揺れます。
陽ざしは小さな水面のようにちらちら動き、草の上には、影の模様がパッチワークのように広がっていました。
ふとコトリは、自分の足もとを見ました。
そこには、細い自分の影と並んで、もうひとつ、同じくらいの大きさの影がありました。
まるで、いつのまにかそこに現れた「ともだち」のように、ぴたりと寄り添っています。
「……あれ? こんな影、あったっけ」
コトリが立ち止まると、その影もぴたりと止まります。
歩きだすと、影も少し遅れてついてきます。
けれどその影は、コトリの動きとほんのわずかだけ、ずれていました。
手をあげると、影はすこしおそるおそる手をあげ、ふりむくと、影はこっちを見ているように感じます。
まるで、もうひとりの「コトリ」が、うしろから追いかけてくるみたいでした。
そのふしぎな感覚に、コトリは胸の奥がくすぐられるような、少しさみしいような気持ちになりました。
その日の晩。
森の小さな広場に、コトリはひとりで座っていました。
地面には夜露が降り、空気はひんやりして、月が雲の切れ間から顔をのぞかせています。
木々の枝のあいだから、光が細く差しこみ、地面に影の縞模様を描いていました。
コトリは、あの朝のもうひとつの影のことを考えていました。
と、そのときです。
やさしい気配といっしょに、足もとの影が、すうっと立ちあがったのです。
影は音もたてずに動いて、やがてコトリとそっくりな女の子のかたちになりました。
けれど、顔はうすぼんやりとしていて、まるで夢の中に出てくる「コトリ」のようでした。
月明かりの中に、その輪郭だけがかろうじて浮かびあがっています。
「あなたは、だれ?」
コトリは、少し息をのんでたずねました。
影は、静かな水面のような声で答えました。
「わたしは、あなたが『言わなかったこと』や、『泣かなかった時』や、『わすれたふりをした気持ち』から生まれた影だよ」
「いつのまに……」
「わたしはずっとここにいたよ。あなたのとなりで、気づかれないまま、いっしょに歩いてきた」
コトリは、なぜかこわくはありませんでした。
むしろ、ずっと会えなかったなつかしい人に出会ったような、ほっとする気持ちが胸にひろがりました。
「ずっといたんだ。でも、わたし、あなたのことずっと見てなかった」
「うん。でもそれって、わるいことじゃないの」
影はまっすぐにコトリを見て言いました。
「人は、全部の気持ちを見つめきれないから。
でも、いまこうして、わたしがここにいたってことを知ってくれたなら、それで十分」
そのとき、広場に雲が流れ、月の光が一層強くさしこんできました。
光は影の女の子の体を透かして、すこしずつ溶かしていきます。
影は、やわらかく笑いました。
「また、いつでも会える?」
コトリの声は、小さな風の音にまじっていました。
「もちろん。だってわたしは、あなたのなかにいるんだから」
影はそう言うと、ふわりと光の中に溶けていきました。
その消えぎわ、影の中から小さな鳥の影がひとつ、ひらひらと飛んでいくのが見えた気がしました。
家に帰ると、コトリは鏡の前に立ってみました。
そして、鏡の中の「自分」に、そっとつぶやきました。
「わたしには、もうひとりのわたしがいるんだよ。見えなくても、ずっといっしょに歩いてきた、大事なともだち」
鏡の奥で、コトリの影がやわらかく揺れました。
まるで、「ちゃんと聞いているよ」と返事をするように。
影は、いつもそばにある。
見ないふりをしていた気持ちも、ひとりにしたままの想いも……
影を見つめたとき、それはちゃんと自分のかけらとして、やさしく寄り添ってくれる。
春の光が森の奥へ差しこむように、自分の中の影もまた、ひそやかなひかりを持っていた。




