かえることのない手紙
秋のまよい森は、空気がすこしずつ冷たくなっていました。
木の葉はひとつひとつ、夏の名残を手ばなすように色を変えています。
赤く、金色に、そして静かな茶色へ。
枝のすきまをわたる風は、もうどこか遠くの冬のにおいをまぜていました。
その日、コトリは森の小道を歩いていました。
足もとでは、落ち葉がぱりりと音をたて、靴のうらにやわらかくしずみます。
どこからともなく、鳥の羽音と、乾いた木の実の転がる音がしていました。
そのとき、風がひとすじふいて、何かがコトリの目の前を通りすぎました。
ひらり、ひらり。
紙のような、羽のようなものが、空の中を漂っています。
コトリが手をのばすと、それは指先にふわりと触れて、軽い息のように落ちました。
拾い上げてみると、それは小さく折られた紙でした。
角がすこし濡れていて、文字の跡のような影が浮かんでいます。
そっと開くと、中にはたったひとこと。
「ありがとう」
それだけ。差出人の名前も、あて先もありません。
けれど、その一文字一文字には、不思議なくらい“ぬくもり”がありました。
まるで、書いたひとの心がまだそこに残っているように。
コトリはしばらくそれを見つめていました。
紙の上には、手のぬくもりがうすく残っていて、指先がほんのりとあたたかい。
でも、どこかさみしい気持ちが胸の奥にひろがっていきました。
その日の夕方、森の郵便屋さんのミミズクおばけに出会いました。
彼は大きな羽をゆったりと動かしながら、古い木の枝にとまっています。
「こんばんは、コトリ。今日は風が強いね」
「うん。ねえ、これ、森の道で拾ったの」
コトリは、あの紙を見せました。
ミミズクおばけは、それをしずかに受け取り、長いまつげをゆっくりと閉じました。
そして、目をひらくと、羽をすこしふるわせながら言いました。
「それはね、『かえることのない手紙』だよ」
「かえることのない……?」
「うん。だれにも届かないし、だれからも返事がこない手紙さ」
コトリは首をかしげました。
「そんな手紙、どうして出すの?」
ミミズクおばけは、遠くの空を見上げました。
秋の夕暮れは、雲のあいだからかすかに金の光をこぼしています。
「たとえばね、もうこの森にいない誰かへ。もう会えないひとへ。それから、まだ見ぬ誰かへ。あるいは、昔の自分へ」
その声には、静かで深い時間の響きがありました。
「届かなくても、返ってこなくても、それでも出さずにはいられない言葉ってあるんだよ。
それが『かえることのない手紙』。わたしは毎年この季節に、それを集めているんだ」
そう言って、ミミズクおばけは翼の下から小さな封筒をいくつか取り出しました。
どれも宛名のない手紙。
けれど、それぞれに違う香りがしていました。花のような、雨のような、古い木のような。
「読まれなくても、届けられなくても、出すという行いそのものが、心を軽くするんだよ」
コトリはその言葉を聞きながら、手の中の紙を見つめました。
そして、ゆっくりとうなずきました。
その晩、コトリは机の上に便せんを広げました。
外では風が木々をわずかにゆらしていて、森の夜の音が窓のすきまから聞こえてきます。
コトリはしばらく考えこんでから、ペンをとりました。
書きはじめると、ことばは思いのほかすらすらと流れ出しました。
お元気ですか。わたしは、今、まよい森の近くで暮らしています。
森でたくさんのおばけと出会いました。
おばけたちはこわくなくて、みんなやさしくて、あたたかくて。
ときどき泣いて、ときどき笑って、たくさんの思い出ができました。
ありがとう。わたしは毎日、たのしいです。あなたは、どうですか?
手紙を書きながら、コトリはいつのまにか笑っていました。
書き終えたあとも、しばらくその紙を手にしたまま、
まるで、誰かとおしゃべりをしているような静けさが部屋の中に広がりました。
翌朝。霧のうすい森の道を、コトリは封筒を胸に抱えて歩いていました。
行き先は、森のいちばん奥にある小さなポスト。
そこは“かえらない手紙だけ”を受け取る、ミミズクおばけのポストでした。
ポストは古い木の根元にうもれるように立っていて、
まるで森の一部になっているかのようでした。
コトリが封筒を入れると、木の葉がふわりと舞い上がり、風がやさしく頬をなでました。
その一瞬、どこか遠くで小さな鐘の音がしたように感じました。
数日後、ミミズクおばけがコトリを見つけて言いました。
「あなたの手紙ね、『ひつようとしていた誰か』のところへ届いたよ」
「ほんとうに?」
「ええ。返事はこないけれど、たしかに届いた。手紙っていうのは、いつも、目に見えない道を通るんだ」
その言葉を聞いたとき、コトリの胸の奥に、
小さなあたたかい灯がともったように感じました。
手紙は、ときに誰かへ。ときにどこかへ。ときに、自分の中へ旅をします。
かえってこなくても、残らなくても。
それが書かれた瞬間に、すでに“だいじな想い”が動き出しているのです。
風がまた、森を吹きぬけていきました。
コトリの足もとを、小さな紙きれがひらりと通りすぎました。
それはきのうまで知らなかった誰かの“ありがとう”かもしれません。
森は静かにそれを受けとめ、今日もどこかで、新しい手紙が生まれているのでした。




