まっくらな木と光るくちぶえ
まよい森のずっと奥、ふかいふかいところに、ひかりを一度も見たことがない木があるといいます。
その木のまわりでは、光がさえぎられ、太陽も月も、火のあかりさえ近づかない。
どんな鳥もとまらず、風さえも息をひそめて通りすぎる。
森の住人たちはその木を『まっくらの木』と呼んでいました。
ある日、コトリはそのうわさを聞き、どうしてもその木に会ってみたくなりました。
「光のないところって、ほんとうはどんな気持ちなんだろう」
その問いが、胸の奥で小さな灯のようにともったのです。
コトリは、朝から森のいちばん深い道へと歩きはじめました。
足もとでは、ぬれた苔がしずかに光り、空気のにおいはすこしずつ冷たくなっていきます。
鳥の声が遠のき、葉ずれの音も消え、やがて、耳の中には自分の呼吸の音しか残らなくなりました。
風が止まったわけではなく、風そのものが“音を持つことをやめた”ような、ふしぎなしずけさでした。
そうしてたどりついた先に、コトリは見つけました。
そこだけ世界が止まったような場所に『まっくらの木』が立っていました。
木は、枝も葉もこげ茶のまま、すべてが影のように黒く、空とまざって溶けていくようでした。
近づくほどに色が消えていき、コトリの手さえも、指先からゆっくりと見えなくなっていく。
まるで光が拒まれているのではなく、この場所そのものが光を“知らない”のだと感じられました。
コトリは小さく息をのみ、そっと声をかけました。
「こんにちは……わたしはコトリ。あなたは、ここでひとりだったの?」
しばらくの沈黙ののち、木の幹の奥から、かすかに、音のような気配がひびきました。
声ではないのに、言葉が心の中にひらく。
そんな感じでした。
「わたしには、ひかりがわからない。でも、ときどき、音がふれる。風が通る音。鳥がとまる気配。それがあるときだけ、すこし、世界のかたちが見えるんだ」
コトリは、はっとして耳をすませました。
たしかに、この場所の“音”は特別でした。
遠くでひとつ、水の滴が地面をたたく音。
木の幹の内側で、ゆっくり呼吸するような低い響き。
それは、見えない世界の“輪郭”を描く音でした。
コトリはポケットをごそごそと探り、いつも持ち歩いている小さな金のくちぶえを取り出しました。
「じゃあ、これを吹いてみるね。わたしのひかりのかわりみたいな音だけど」
そっと息をふきこむと、くちぶえはやわらかく、森にとけるような音をならしました。
ピィ……ホロ……ピィ……。
その音が空気の粒にまざって、木のまわりをひとまわりします。
その瞬間、まっくらだった木の表面が、かすかにふるえ、うすい光がにじみはじめました。
光と呼ぶにはあまりにも淡く、まるで“音の記憶”が木の皮にすこし残ったような、やさしいひかり。
コトリの吐息のたびに、そのひかりがふわりと揺れました。
「わたし……すこしだけ、見える」
木の声は、たしかにうれしそうでした。
「この音は、光のにおいがする。見えないけれど、あなたの音の中に、世界がある」
コトリは、もう一度くちぶえを吹きました。
今度は、森を思い浮かべながら。
雨のしずく、友だちのおばけたちの声、木々のざわめき、夜のオルゴール。
音のひとつひとつが、木の幹に小さな光の点を描き、それらがつながって、ゆるやかな模様を生み出しました。
「これは……葉のかたち? 風のうた?」
「うん、わたしの知ってる森の風景」
「こんなにたくさんの世界があったのか……音は、こんなにも明るかったんだね」
木の声は、かすかに笑いました。
その笑い声も、光の粒のように空中にとけていきました。
日が暮れはじめるころ、コトリはくちぶえをおろし、そっと言いました。
「わたし、また来るね。もっといろんな音をつれて。森の話や、夜の色の話も」
木は、ゆっくりとうなずいたように枝をふるわせました。
「ありがとう。あなたのくちぶえが、わたしの光だよ」
森を戻る途中、コトリのポケットの中で、金のくちぶえがかすかに音をたてました。
それは、まっくらな場所にふれたことで、ほんの少し、光をおぼえた音だったのかもしれません。
世界には、たしかに『光』のないところがある。
けれど、そこにふれる『音』や『手ざわり』や『こころ』は、べつのかたちの『あかり』になる。
コトリはそのことを思いながら、しずかな森を歩きつづけました。
ピィ、ホロ。
くちぶえの音が、夜の空気に小さな灯をともしていました。




