雨のふる日にしか見えないおばけ
その日、まよい森には、朝からやわらかな雨がふっていました。
木の葉がひとつひとつしずくを受けとめて、ぽつん、ぽつんと音を立てます。
空はうす灰色で、光はとろりと溶けて森を包み、土のにおいは深く、懐かしい。
コトリは傘をさして、ゆっくりと歩いていました。
ぬれた草をかきわけるたびに、小さな水音がして、まるで森が呼吸しているようです。
ふと、コトリは空を見上げました。傘の向こうで、雨粒がひとつひとつ、光を抱えて落ちてくるのが見えます。
「雨の森って、なんだか……いつもより森が近い気がするな」
そのときでした。
前を見た瞬間、空気の向こうに、だれかが立っているような気配がしました。
それは、雨にぬれることでしか姿を持てないおばけでした。
細い輪郭が、雨の筋の中から少しずつ生まれていき、透きとおった女の子の姿をつくっていきます。
服も髪も、まるで雨そのものでできていて、しずくが髪の先で光るたびに、虹色の影が一瞬だけ浮かびました。
「こんにちは」
コトリが声をかけると、おばけはびくっとしてふりかえり、驚いたような、それでいてうれしそうな顔をしました。
「……見えるの? わたしのことが」
「見えるよ。でも、なんだか、あなたは雨でできてるみたい」
おばけは、くすりと笑いました。
「そうよ。わたしは雨の日にしか見えないおばけ。晴れたら消えるし、だれかの記憶の中にしかいられないの」
「じゃあ、あなたに会えるのって、今日だけ?」
「そう……たぶん、これが最後の雨だから」
「最後?」
コトリは思わず聞き返しました。
おばけは、雨の中でまっすぐコトリを見つめ、しずかにうなずきました。
「ずっとむかし。わたし、ここで雨にうたれて立っていたら、ある子が声をかけてくれたの」
「その子、わたしのこと、ともだちになろうって言ってくれた」
「でも、その子はすぐに森からいなくなって……わたしは、ずっと、また雨がふるのを待ってたの」
おばけの声は雨にまぎれて、まるで森そのものが話しているようでした。
コトリは、その話を聞きながら、胸の奥にひっかかるような、でもあたたかい痛みを感じました。
その子のことを想うおばけの姿が、なぜか、とてもなつかしく思えたのです。
「その子、もしかして……」
コトリが言いかけたとき、雨が、ふいにやんでしまいました。
その瞬間、おばけの体が、すうっと消えはじめたのです。
水でできた体が、空気にまぎれて、光といっしょにほどけていくように。
「ちょっと待って! 名前だけでも教えて!」
コトリの声は、しずまっていく雨のあとに響きました。
おばけは、ふわりとほほえみ、くちをひらく前に、やさしく手をふりました。
その手のしずくが空中でほどけると同時に、彼女は、音もなく消えてしまいました。
あとにのこったのは、ぬれた草の匂いと、コトリの傘に残った小さな水の粒だけでした。
コトリは、傘の端を指でなぞりながら、ぽたりと落ちる水滴をじっと見つめました。
そのひとつひとつが、まるで言葉になれなかった記憶のかけらのように思えたのです。
帰り道、森の木々の間を抜けながら、コトリはそっとつぶやきました。
「……また、あえるといいな」
答えるように、葉の上のしずくがひとつ、しずかに落ちました。
その夜。
コトリの夢の中には、もう雨はふっていませんでした。
けれど、遠くの方で、かすかな水音がしていました。
それは、どこかでまだ、あの雨のおばけが笑っているような音でした。
もしかしたら、あのおばけと出会ったことは、ずっと昔のどこかに本当にあったのかもしれません。
もう一度会えなくても、たしかにあった時間が、雨の中でそっと息をしていた。
そんな気がしたのです。
まよい森のどこかには、今も「だれかの記憶を待っているおばけ」がいます。
そして、雨がふるときだけ、世界はほんのすこしだけ、その姿をうつしてくれるのです。




