コトリのなまえをわすれた日
その朝、コトリはふしぎな夢を見ました。
どこか知らない場所で、だれかがコトリを呼んでいる――けれど、その声がなんと言ったのか、思い出せません。
目をさましたとき、コトリは気づきました。
じぶんの名前を、わすれてしまっていることに。
「……あれ?」
お母さんの声も、お友だちの笑顔も、ちゃんとそこにあるのに、
その声が「自分の名前」を呼んでいるとわからないのです。
「わたし……だれだったっけ……?」
コトリは森に出かけました。
もしかしたら、森の中に、何か思い出すヒントがあるかもしれない。
けれど、森のおばけたちに会っても、だれもコトリの名前を思い出してくれませんでした。
「きみ……だれだったっけ?」
「いつも来てる子だよね。でも、名前ってあったっけ?」
「名前って、大事なのかな?」
そのときです。
深い霧の奥から、ひとりの『なまえを持たないおばけ』があらわれました。
「こんにちは」
「こんにちは」
「あなたも名前をなくしたの?」
おばけは、ふんわりと笑って言いました。
「ううん。わたしは、生まれたときから、『なまえ』がなかったの。
だから、あなたのことが少し、うらやましい」
「うらやましい?」
「なまえがあるってことは、だれかがあなたを『あなた』として見つけてくれたってこと。でもそれを忘れたとき、人は少しだけ、すきとおってしまうのよ」
コトリは、自分の手を見ました。
ほんのすこしだけ、指先が光の中にまざって見えました。
「でも、なまえってほんとうは、だれかの心の中にある『音』みたいなものかもしれない」
「音……?」
「そう。たとえば、小さな羽の音だったり、だれかが笑ったときにうまれる音だったり……」
そのとき。
コトリの耳に、かすかな声がひびきました。
――コトリちゃん?
それは、風のように、草のざわめきのように。
でも、まちがいなく、だれかが、自分を「コトリ」と呼んでいる声でした。
「……あっ」
その瞬間、コトリの胸の奥で、何かがやさしくひらきました。
わたしは、コトリ。
この森を歩いて、いろんなおばけに出会って、笑って、泣いて、不思議なことがたくさんあった。
わすれていたのではなく、あまりにもたくさんの出会いが重なって、名前のかたちが変わってしまっていただけだったのです。
「思い出した?」
「うん。わたしの名前はコトリだよ」
名前のないおばけは、ほっとしたように笑いました。
「よかった。『コトリ』って、いい名前ね。ちゃんと、風や空の音がする」
コトリも笑いました。
その日から、名前は前よりもずっと、「だれかとつながる音」のように感じられるようになりました。
もしもまた、名前を忘れてしまう日がきたら、
そのときは、森がきっと、そっと教えてくれるはずです。
「あなたは『コトリ』だよ」って。
それは『名前』じゃなく、こころの中の、だれかにとっての、たしかな『音』のようなものだから。




