きつねびといっしょに歩く夜
その夜の森は、いつもとすこしだけ違っていました。
風の音もなく、木々のささやきも止まり、葉の一枚までが息をひそめているような、しずかな夜。
コトリは、小道を歩いていました。
けれど、いつのまにか道が消えていました。
「……あれ? たしかに、さっきまではここにあったのに」
ふり返っても、足あとだけが草のあいだからのびているだけで、帰る道は見えません。
森の奥には、やわらかく光るものがちらちらと揺れていました。
炎。けれど、火ではありません。
それは、青とも金ともいえない不思議な光。
ゆらめく光の真ん中に、ひとりのきつねのおばけが立っていました。
顔の半分を仮面でかくし、尾は七本。
風もないのに、ふわりふわりと炎のようにゆれています。
「こんな夜に、迷うとは……こりゃまた、ひとくせある子狐だ」
おばけが低く笑いました。
「わたし、こどもじゃないもん」
「ほう? じゃあ、ひとりで帰れるか?」
「……ちょっとだけ、まよってるけど」
きつねのおばけは、くすくすと笑い、炎のあいだをぴょんと飛びました。
「ならば、きつねびの道案内。おつきあい願おう」
そう言って、七つの尾がふわっと広がると、まるで星のようにいくつもの灯がともりました。
青、橙、金。
ゆらゆらと浮かぶ灯をたよりに、ふたりは夜の森を歩きはじめました。
「ねぇ、きつねびって、なんのためにあるの?」
歩きながら、コトリがたずねました。
炎の光は草の露を透かし、足もとをやわらかく照らしています。
「ほう……それを聞くか。きつねびはな、忘れられたものの“思い出”なのさ」
「思い出……?」
「そう。たとえば、誰かが昔、大事にしていた花の名前。あるいは、手をふったままの最後の景色。そういう“もう戻らないけれど、残ってしまった記憶”が、火になって森にちらちら灯るんだ」
コトリは黙って、その灯を見つめました。
どの炎も少しずつ色が違い、ゆらめくたびに息をしているようでした。
どこか、なつかしくて、せつなくて。
ひとつひとつの灯のなかに、誰かの時間が閉じこめられているようでした。
ふいに、道のわきの草むらで、ひときわあかるいきつねびが立ち上がりました。
「おや……これは」
きつねのおばけが手をかざすと、その灯りの中に、小さな女の子の幻が浮かびました。
風のない夜なのに、赤い風車がくるくると回って、少女はうれしそうに笑っています。
「……これ、わたし。ちいさいときの」
「ふむ。どうやら、おまえ自身の思い出も、ここに落としていったらしい」
コトリはしばらく、その光景を見つめました。
「忘れてた……あの風車、大好きだったのに」
風車の幻は、ふわりと消えていきました。
そのあとに残ったのは、やわらかく、あたたかいきつねび。
コトリはそっと手をのばし、炎にふれました。
ひやりとあたたかくて、胸の奥がじんとして、涙がこぼれそうになりました。
「思い出って、不思議だね」
「そうとも。生きているものにも、おばけにも、ひとしく重たく、そしてやさしい」
きつねのおばけの声は、遠くで火の粉がはじけるような響きでした。
やがて、森の木々がまばらになり、月明かりが広がってきました。
「ここまでだ。あとは、自分の道を歩いて行け」
コトリはうなずきました。
「ありがとう、きつねさん」
「礼などいらぬ」
きつねのおばけは、仮面の奥で目をすこし細め、炎の向こうで静かに言いました。
「……ただし。いつかおまえが、ぜんぶの道を見失ったとき。もう一度、炎の中をのぞきに来い。そのときはほんとうの名前で呼んでやる」
コトリがきょとんと顔を上げたとき、もうそこには誰もいませんでした。
きつねびたちは、ふわりと風に乗って消え、闇の奥へと帰っていきました。
その夜、コトリはあのあたたかな炎のことを、ずっと覚えていました。
もう戻らないけれど、大切だったもの。
消えてしまったけれど、たしかにあったもの。
それは、夜の道を歩く心のなかで、
いまもしずかに、灯っているのです。




