あきのまぼろしおばけ
秋のまよい森は、どこかすこし寂しげでした。
空の色は淡くけぶり、木々の葉は赤や金や橙に染まりながら、ひとひらずつ静かな音を立てて落ちていきます。
「さらり」
「ひらり」
そんな音さえ、森の呼吸のように聞こえる夕暮れどき。
コトリは、落ち葉を踏みながら小道を歩いていました。
靴の下で「かさり」と鳴る音が、森じゅうに溶けていきます。
そのとき、風のなかから、やわらかな声がしました。
「……ねえ」
「……そこに、いる?」
ふしぎなほど澄んだ声でした。
風の中に混じっているのに、まるで耳のすぐそばでささやかれたような気がして、コトリは足をとめました。
「……わたしは、いるよ」
そう答えてふりかえっても、そこにはだれもいません。
ただ、金色の葉がひとつ、ゆっくりと落ちていくだけでした。
「だあれ?」
コトリがたずねても、返事はありません。
けれど、たしかに、だれかがすぐそばに立っていたような、
そんな気配だけが、やわらかく残っていました。
その夜。
コトリの夢のなかに、白くゆらめく影が現れました。
それは風にまぎれてやってくる、声のような存在。
影はやさしい音で語りかけました。
「わたしは、あきのまぼろし。だれかがさみしいときに、すこしだけ近くにくるおばけ。でも、見えてしまったら、すぐに消えてしまうの」
夢の中のコトリは、小さく首をかしげました。
「じゃあ、ずっと見えなかったら、ずっとさみしかったら、あなたはずっとそばにいてくれるの?」
あきのまぼろしは、ふふっと笑いました。
その笑い声は、木の葉がこすれるように小さくて、どこかせつない音でした。
「それは、むずかしいね」
「なんで?」
「ずっと見つけられなくて、さみしさが深くなりすぎると、わたしの姿はすこしずつ消えてしまうの。でもね、だれかが思い出すことで、わたしはまた、おばけのかたちになるの」
それは、秋そのもののような存在でした。
あきのまぼろしのおばけは、だれかの記憶や、さみしさや、なつかしさ。
そんな名前のつかない感情から、そっと生まれてくるのです。
それからの日々。
まよい森に風が吹くたびに、コトリは目をとじて、その気配を感じるようになりました。
落ち葉の舞う音のなかに、かすかに聞こえる「……ねえ」という声。
木々の間を渡る風の冷たさのなかに、ぬくもりのような気配。
だれかを思い出したとき、ふと背中のうしろで誰かが息をしているように感じる。
でもふりかえると、そこにはただ落ち葉がひらひらと舞っているだけ。
「きっと、今のが、あきのまぼろしおばけだったんだ」
コトリはしずかに笑いました。
その笑顔は、どこか少し涙に似ていました。
ある日の午後、空が淡く曇り、森全体が金色の霞に包まれたころ。
コトリはふと思い出しました。
自分の大切だった、だれかのことを。
なまえも、顔も、もうぼんやりとしている。
けれど、たしかに手をつないだ感触。
いっしょに見あげた夕焼けの空の色。
秋の空気の冷たさのなかに、それがふいに戻ってきたのです。
その瞬間、風がふっと強くなりました。
木の枝から、一枚だけ金色の葉がふわりと舞いおりて、コトリの肩にそっと触れました。
まるでおばけが「思い出してくれてありがとう」と言っているようでした。
コトリはその葉を両手で受けとめ、胸の前でやさしく包みました。
すると、葉の中からあたたかい風がひとすじだけ生まれて、森をめぐりながら遠くへ消えていきました。
それが、あきのまぼろしおばけの「さよなら」でした。
けれど、それはほんとうの別れではありません。
あきのまぼろしは、会おうとしても会えないけれど、だれかが“思い出そう”としたときだけ、そっと寄り添ってくれる。
すれちがいのようでいて、ほんとうはちゃんと、心と心がふれている。
季節と記憶は、目には見えなくても、たしかにつながっているのです。
風が吹くたび、落ち葉が舞い、木々がささやく。
その音の中に、「またね」という小さな声が、そっとまぎれこんでいました。




