なつのにおいのおばけ
むし暑い夕ぐれ。
まよい森の空気はゆらゆらとかすみ、草のあいだからは、ひぐらしの声がしずかに重なっていました。
コトリは森の小道を歩いていて、ふと足をとめました。
どこからともなく、なつかしいにおいがしたのです。
それはすこし甘くて、すこし焦げたようなにおい。
遠い記憶の奥から、やさしく手をのばしてくるような香りでした。
風がすこし動くたびに、そのにおいは形を変えて届きます。
線香花火の煙、焼けたたい焼きの皮、濡れた麦わら帽子のひんやりした匂い、ぬか漬けの壺を開けたときの酸っぱい空気、遠くの雷が近づく前の、土のようなにおい。
それらがいっせいに混ざりあい、森の夕ぐれは、まるで「夏」というひとつの生きものの息づかいで満たされていました。
「このにおい……知ってる。けど、思い出せない……」
コトリが小さくつぶやいたとき、背中のうしろで空気がふっとゆれました。
ふりかえると、そこに透明なおばけが立っていました。
おばけは風のように輪郭があいまいで、姿の内側から淡い光がもれていました。
その光がゆれるたびに、においが変わるのです。
花火の煙、夜店の綿あめ、雨あがりのアスファルト、記憶の層をひとつひとつめくるように。
「あなたは、もしかして『夏』のなかにいるおばけなの?」
おばけは声を出さず、ただ風の音のような響きをのこしました。
すると、コトリの頭の奥にやわらかい声が流れこみます。
『わたしは、においでできている。記憶の扉を、そっとひらく風』
おばけは自分のことを、「ナツ」と呼んでほしいと言いました。
ナツは、人の夏の記憶をたどり、ときどきそれを返しにくる存在なのだそうです。
『あなたが覚えている夏を、見せて』
ナツのことばに、コトリの目の前の空気がゆっくりと波打ちました。
すると、淡い光の幕がひらき、その中にひとつの夏の日の景色が浮かび上がりました。
小さな川辺。
夕ぐれの風が水面をなで、空は赤と金色のまざった光で染まっていました。
ひとりの少女が川の石をあつめて遊びながら、手に小さな花火を握っています。
火をつけようとしても、なかなかつかない。
マッチもない。火もない。
少女ーーコトリは、しょんぼりと空を見上げました。
そのとき、どこからか現れた見知らぬ子どもが、
「これ、つかっていいよ」
と、マッチを差し出したのです。
なまえも、顔も、思い出せない。
でも、あのとき感じた風のにおい、火薬の煙のにおい、そして胸の奥があたたかくなった瞬間の空気――それだけは、はっきり覚えていました。
「……この子、だれだったんだろう」
コトリがぽつりと言うと、ナツはしずかに答えました。
『思い出せないことも、とてもたいせつな記憶。きみに火をつけたそのだれかは、いまもきみのなかで灯っている』
その夜、森の風は甘く、少し湿っていました。
遠くの空では稲妻がひらき、木々の影を一瞬だけ白く染めます。
コトリはナツと並んで、しばらくその光を見ていました。
それから数日。
コトリはナツといっしょにまよい森を歩きました。
ふたりは花のにおい、雨のにおい、夕立あとの土のにおいをたどりながら、
それぞれのにおいに宿った「だれかの夏」を見つけていきました。
あるにおいは、初恋の記憶。
あるにおいは、亡くなった家族の手のぬくもり。
あるにおいは、言えなかった「またね」。
ナツはそれらを静かに受けとめ、少しずつ森の風に返していきました。
まるで、過去の夏たちを風の中でほどいていくように。
けれど、ある夜。
空に黒い雲が広がり、稲妻がひらめきました。
大粒の雨が降りはじめ、森じゅうがざわめきました。
コトリが木の下で雨をよけながら辺りを見まわすと、そこにいたはずのナツの姿が、どこにも見えません。
残っていたのは、雨にぬれた土のにおいと、火の消えた線香花火の、かすかに甘い残り香だけでした。
雨の音の中で、コトリはそっと目をとじてつぶやきました。
「また来年も、『ナツ』がやってくるなら……わたし、もっとたくさんのにおいを集めて、待ってるね」
風が森をかけぬけ、雨あがりの空に淡い金色の夕焼けがのこりました。
その風の中に、ほんの一瞬だけ、花火の煙のにおいがまじっていたような気がしました。
夏のにおいは、いつだって不意にやってくる。
そして、だれかの胸の奥をくすぐって、そっと過ぎていく。
ふだんは忘れてしまっていることが、ひとつのにおいでよみがえるとき、それはまるで時間をこえて届く、おばけのような記憶なのです。




