表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/108

はるのなみだのおばけ

 春のまよい森には、すこしだけうれしくて、すこしだけさみしい風がふきます。

 冬の眠りから目をさました木々が枝をのばし、地面では雪の名残がゆっくりと水にかわり、その水音が、森のどこかで小さく笑っているように聞こえます。

 鳥たちは枝から枝へと飛び、やわらかな陽ざしの中で羽を震わせます。

 花のつぼみがふくらみ、森じゅうが「おはよう」と言っているようでした。

 でも、コトリの胸のなかには、ひとすじのかすかな風が吹いていました。

 うれしいはずの春なのに、どこか心のすみに小さなさみしさがのこっているのです。

 それはきっと、冬の静けさがまだ心のどこかに残っているせいかもしれません。


 そんなある朝。

 コトリは森のいちばん奥、雪どけの水がつくる細い小川のほとりを歩いていました。

 水面には、きらきらと光る小さな粒が跳ねています。

 まるで空気の粒そのものが、春をよろこんで笑っているようでした。

 そのときです。

 木々のあいだから、きらめくような光がこぼれおちていました。

 よく見ると、それは透けるような姿をした小さなおばけ。

 肩や髪に、しずくのような粒をまといながら、しずかに涙を流していたのです。

「ないてるの?」

 コトリが近づいてたずねると、おばけは小さくうなずきました。

「うれしいの。でも……さみしいの」

 おばけの声は、まるで春風の切れはしのようにかすかで、聞こえたかどうかもわからないほどのやさしい響きでした。

「また春がきたから、ぼくは生まれた。でも、春が終わるとぼくはいなくなるんだ。だから、うれしくて、でもちょっとだけ、さみしいの。それは、はじまりの合図なんだよ」

 おばけの涙が土に落ちるたび、そこから小さなつぼみがふくらみました。

 その花たちはまだ名もない色をしていて、春風にふかれると、かすかに光って見えました。


 それは、はるのなみだのおばけでした。

 春の初め、雪どけのしずくや花のつぼみの涙から生まれる存在。

 ほんの短いあいだだけ、この世にあらわれる、春のきせきのような生きものです。

「だったら、わたしがちゃんと見るよ」

 コトリは言いました。

「あなたがいるあいだ、いっしょにいていい?」

 おばけは、すこしだけ驚いたように目をひらき、

 それから、しずかにうなずきました。


 その日から、ふたりの春がはじまりました。

 朝、鳥の声が目をさますころ、コトリはおばけと森を歩きました。

 まだ冷たい霜の上を踏みしめると、きゅっきゅっと音がして、

 おばけの足あとが光のしずくのように残りました。

 昼には、ひらきかけの花びらを見つけては、「もうすぐだね」と笑い合い、夕暮れには、木の根もとに並んで腰をおろし、空が桃色に染まるのを見上げました。

 おばけの涙は日ごとに減り、そのかわりに、笑う時間が少しずつ増えていきました。

 風にふかれて花びらが舞うたびに、おばけはそのなかでくるりと回って、「これが春のダンスだよ」と、いたずらっぽく笑いました。

 コトリもまねをしてくるくる回り、ふたりの笑い声が森にひびきました。


 けれど、季節は止まってくれません。

 ある日の夕暮れ、風が少しだけ夏の匂いをまぜはじめたころ、おばけはコトリに言いました。

「そろそろ、ぼくのなかの春が消えはじめたんだ。たぶん、あと少しで、ぼくも消える」

 コトリは、手のひらをのばしておばけの手を包みました。

 その手は、まるで水のように冷たくて、でもどこかあたたかい。

「また、来年会えるかな」

 コトリはやさしく微笑みました。

「さよならじゃなくて、『またね』って言ってもいいよね?」

 おばけは目を細めてうなずき、最後の涙をひとしずく、コトリの手のひらに落としました。

 それは、ひんやりして、でも少しだけぬくもりを残す、春そのもののしずく。


 その夜、森はふしぎなしずけさに包まれました。

 虫の声も、風の音も、どこかでやさしくひそやかに聞こえました。


 次の朝、コトリが目をさますと、おばけの姿はもうありませんでした。

 けれど、コトリの家の庭にだけ、春には咲かないはずの花がひとつ、ぽつんと咲いていました。


 その花は、おばけの涙がのこした、春のしるし。

 風がふくたびに花びらがかすかにふるえ、まるで「またね」と言っているように、音もなく微笑んでいました。


 季節はめぐり、森はまたちがう色をまとうでしょう。

 けれど、やさしさや思い出のかけらは、毎年、同じ場所で、そっと息をしているのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ