はるのなみだのおばけ
春のまよい森には、すこしだけうれしくて、すこしだけさみしい風がふきます。
冬の眠りから目をさました木々が枝をのばし、地面では雪の名残がゆっくりと水にかわり、その水音が、森のどこかで小さく笑っているように聞こえます。
鳥たちは枝から枝へと飛び、やわらかな陽ざしの中で羽を震わせます。
花のつぼみがふくらみ、森じゅうが「おはよう」と言っているようでした。
でも、コトリの胸のなかには、ひとすじのかすかな風が吹いていました。
うれしいはずの春なのに、どこか心のすみに小さなさみしさがのこっているのです。
それはきっと、冬の静けさがまだ心のどこかに残っているせいかもしれません。
そんなある朝。
コトリは森のいちばん奥、雪どけの水がつくる細い小川のほとりを歩いていました。
水面には、きらきらと光る小さな粒が跳ねています。
まるで空気の粒そのものが、春をよろこんで笑っているようでした。
そのときです。
木々のあいだから、きらめくような光がこぼれおちていました。
よく見ると、それは透けるような姿をした小さなおばけ。
肩や髪に、しずくのような粒をまといながら、しずかに涙を流していたのです。
「ないてるの?」
コトリが近づいてたずねると、おばけは小さくうなずきました。
「うれしいの。でも……さみしいの」
おばけの声は、まるで春風の切れはしのようにかすかで、聞こえたかどうかもわからないほどのやさしい響きでした。
「また春がきたから、ぼくは生まれた。でも、春が終わるとぼくはいなくなるんだ。だから、うれしくて、でもちょっとだけ、さみしいの。それは、はじまりの合図なんだよ」
おばけの涙が土に落ちるたび、そこから小さなつぼみがふくらみました。
その花たちはまだ名もない色をしていて、春風にふかれると、かすかに光って見えました。
それは、はるのなみだのおばけでした。
春の初め、雪どけのしずくや花のつぼみの涙から生まれる存在。
ほんの短いあいだだけ、この世にあらわれる、春のきせきのような生きものです。
「だったら、わたしがちゃんと見るよ」
コトリは言いました。
「あなたがいるあいだ、いっしょにいていい?」
おばけは、すこしだけ驚いたように目をひらき、
それから、しずかにうなずきました。
その日から、ふたりの春がはじまりました。
朝、鳥の声が目をさますころ、コトリはおばけと森を歩きました。
まだ冷たい霜の上を踏みしめると、きゅっきゅっと音がして、
おばけの足あとが光のしずくのように残りました。
昼には、ひらきかけの花びらを見つけては、「もうすぐだね」と笑い合い、夕暮れには、木の根もとに並んで腰をおろし、空が桃色に染まるのを見上げました。
おばけの涙は日ごとに減り、そのかわりに、笑う時間が少しずつ増えていきました。
風にふかれて花びらが舞うたびに、おばけはそのなかでくるりと回って、「これが春のダンスだよ」と、いたずらっぽく笑いました。
コトリもまねをしてくるくる回り、ふたりの笑い声が森にひびきました。
けれど、季節は止まってくれません。
ある日の夕暮れ、風が少しだけ夏の匂いをまぜはじめたころ、おばけはコトリに言いました。
「そろそろ、ぼくのなかの春が消えはじめたんだ。たぶん、あと少しで、ぼくも消える」
コトリは、手のひらをのばしておばけの手を包みました。
その手は、まるで水のように冷たくて、でもどこかあたたかい。
「また、来年会えるかな」
コトリはやさしく微笑みました。
「さよならじゃなくて、『またね』って言ってもいいよね?」
おばけは目を細めてうなずき、最後の涙をひとしずく、コトリの手のひらに落としました。
それは、ひんやりして、でも少しだけぬくもりを残す、春そのもののしずく。
その夜、森はふしぎなしずけさに包まれました。
虫の声も、風の音も、どこかでやさしくひそやかに聞こえました。
次の朝、コトリが目をさますと、おばけの姿はもうありませんでした。
けれど、コトリの家の庭にだけ、春には咲かないはずの花がひとつ、ぽつんと咲いていました。
その花は、おばけの涙がのこした、春のしるし。
風がふくたびに花びらがかすかにふるえ、まるで「またね」と言っているように、音もなく微笑んでいました。
季節はめぐり、森はまたちがう色をまとうでしょう。
けれど、やさしさや思い出のかけらは、毎年、同じ場所で、そっと息をしているのです。




