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かぜのおばけとおもいの音

 まよい森には、かぜのおばけが住んでいます。

 そのおばけは、姿を持たず、声もなく、ただ風のように森をかけめぐります。

 朝は木々の枝をそっとゆらし、昼は小川の水面をなで、夜は月の光をこぼさないように運ぶ。

 目に見えないのに、森のどこかでかならず生きていて、木の葉のふるえや草のざわめきのなかで、ふとだれかの名前を呼んでいるような気配を残すのです。


 春の終わり。

 森にはいくつもの花が咲いていました。

 白いのは風のしずく、黄色いのは朝の声、紫のは夜の息。

 コトリはそれを見つめながら、そっと耳をすましました。

 そのとき、遠くの方から、かすかな声が聞こえたのです。

「ねえ、きみ。花の音、きこえる?」

 はっとして顔を上げると、風がくるくると回り、落ち葉が輪を描きました。

 その真ん中に、透けるような光のかたまりが、ふっと立ち上がります。

「だあれ?」

「ふふっ、そうだな、ぼくはかぜのおばけかな」

「かぜのおばけ?」

「うん。ぼくは、森の音を運ぶおばけ。花のねいろ、木のささやき、鳥の歌、ぜんぶぼくが運んでいるんだよ」

 コトリは目を細めました。

「じゃあ、わたしの声も、運べる?」

「もちろん。でもね、人の声は重い。やさしい気持ちは風にのるけど、悲しい気持ちは、途中で風を止めてしまうんだ」


 それからの日々、コトリはよくかぜのおばけと話しました。

 おばけは、花の香りを運んできたり、遠くの森の音を届けてくれたりしました。

 ときどき、コトリの言葉を拾って、空の上へと連れていってしまうこともありました。

「いまのは“ありがとう”の声。高く高く上がって、きっと雲の上まで届くよ」

「これは、“さみしい”の声。……重いけど、そっと包んで運んでみるね」


 ある日、森の奥で風がふと止まりました。

 そのしずけさの中で、コトリはおばけにたずねました。

「ねえ、あなたは、どこから来たの?」

 少しの間、葉のすきまを光が通り抜け、かぜのおばけは息をするようにそよぎました。

「ぼくはね、だれかの“ためいき”から生まれたんだ。さみしい気持ちがあまりに長く続くと、その中に風ができる。そして、やさしい人がその風に気づいたとき、ぼくたちは、おばけとして息をするんだよ」

「じゃあ、あなたは、誰かの涙のあとに、生まれたの?」

「うん。でももう泣かないで。その涙も、きっとぼくが運んでいくから」


 それから季節がゆっくりと進みました。

 春の花が散り、葉が深く色づいていくころ、森に少し強い風が吹きました。

 空は低く、雲が早く流れ、枝がざわざわと揺れる。

 コトリは手で髪を押さえながら、声を張りました。

「ねえ、どこにいるの?」

 その風の中で、かぜのおばけの声がかすかに響きました。

「コトリ、ごめん。ぼく、行かなくちゃ。季節が変わるんだ」

「行くって、どこへ?」

「春の風は、夏の風にうつる。ぼくはそのはざまで、かたちをなくす。でもね、ぼくが運んだ音や言葉は、ちゃんと森の中に残るんだ。きみが耳をすませば、いつでも聞こえるよ」

 かぜのおばけはだんだん弱まり、森は深い息をしたようにしずまりかえりました。

 コトリのまわりに、花びらが雪のように舞い降ります。

 ひとつ、掌に落ちた花びらが、小さくふるえました。

「コトリ、きみに会えてよかった」

 それは、たしかにかぜのおばけの声でした。


 その日から、コトリは季節が変わるたびに、森の中でかぜのおばけに話しかけます。

 夏の風には「こんにちは」と、秋の風には「またね」と、冬の風には「おやすみなさい」と。

 そして、風がやさしく頬をなでるたび、コトリは目を閉じて思います。

 いまの風の中にも、きっと、あの“かぜのおばけ”がまじっている。


 風は、だれのものでもなく、どこへでも行ける。

 でもその風の中には、たしかに“思い”がある。

 それを感じとれる人がいるかぎり、かぜのおばけは、今日もまた、まよい森のどこかで、音を運びつづけているのです。

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