はなのねいろのおばけ
まよい森に、あたたかい風が吹きはじめました。
雪の下で長いあいだ眠っていた草が、ひとつ、またひとつと目をさまし、木々の枝からは、つぼみがそっと顔をのぞかせます。
鳥たちはまだ半分眠たそうに、木の上で羽をふるわせ、遠くの空にはやわらかな霞がただよっていました。
その朝、コトリは、森の小道を歩いていました。
足もとには、去年の葉っぱがうすく積もり、ところどころから、小さな芽がのぞいています。
歩くたびに、しめった土の匂いが立ちのぼり、どこか懐かしい春の音が、森の奥から響いてくるようでした。
「……ねえ、きこえる?」
コトリは立ち止まり、耳をすませました。
森のどこかで、ひとつ、やわらかく弾む音がしたのです。
それは鈴のようでもあり、花びらが落ちる音のようでもありました。
音のする方へ歩いていくと、古い桜の木が一本、静かに立っていました。
まだ咲きかけの枝が、やわらかい風に揺れて、ほんのり光っています。
その下に、小さな影がありました。
ふわり。
淡い桃色のかたまりが、花びらのように揺れながら、コトリのほうへ近づいてきました。
それは、花の香りをまとったおばけでした。
「こんにちは」
コトリが声をかけると、おばけは小さく笑うように光りました。
「あなたは、ここに咲く花たちの声なの?」
そうたずねると、おばけはふわふわと枝の間を舞いながら答えました。
「わたしはね、花の“ねいろ”なの。春の風がふれるとき、花が心の奥でひそかにうたう声を、少しだけ借りて生きているの」
その声は、まるで風そのもののようで、やさしく、そしてどこか遠くから響いてくるようでした。
おばけはコトリの肩にふんわりと降り、花の香りを残して笑いました。
「あなたは、花の声がきこえるのね」
「うん。ずっと昔から」
おばけは空を見上げながら言いました。
「でも、みんな春がすぎると、もうその音を忘れてしまう。花はまたしずかに眠るけど、音だけは森の奥で、長い夢を見つづけるの」
コトリは少し考えてから、両手をそっと伸ばしました。
その手のひらのうえで、花の音のおばけがかすかに震えます。
「じゃあ、その音を少し分けてくれない? わたし、音をわすれたくないの」
おばけはうれしそうにふるえ、ひとひらの花びらをコトリの髪にとめました。
「この花が散るまでのあいだ、きっときこえるわ」
その日から。
コトリは、森のあちこちで“音の花”を見つけるようになりました。
咲いたばかりの花の下では、小さな鈴のような音がして、草の葉にたまるしずくは、夜のあいだにやさしく呼吸をしていました。
木々のあいだからこぼれる光も、見えない弦をはじくように、朝の風といっしょに、やわらかな旋律を奏でていたのです。
夜になると、コトリはその音を胸のなかにしまって、ひとりしずかに耳をすませました。
風がふくと、どこかでまた“花のねいろ”のおばけが笑っている気がしました。
「ねえ、春って、さみしくなるね」
ある夜、コトリがつぶやくと、おばけの声がかすかに返ってきました。
「うん。でも、それはだいじな音なの。さみしさの中には、いちばん深い花のうたがあるのよ」
その言葉のあと、風がやさしくコトリの頬をなでました。
その風の中に、花びらがひとひら、ゆっくりと舞っていました。
それは、まるでおばけの「さよなら」のようであり、でも同時に「またね」のようにも聞こえました。
朝になって、コトリの髪にとまっていた花びらは、すっかり乾いていました。
けれど、耳をすませると、森のどこかで、今もその花のねいろが、しずかに鳴りつづけていました。
それは、春という季節の、いちばん奥にある音。
見えないけれど、たしかに生きている、やさしさの調べでした。