月の下のバス停と帰れないものたち
まよい森のずっとずっと奥。
地図にものっていないような細い道のはてに、ぽつんと「バス停」がありました。
けれどそこには、バスなんて決してやってきません。
立て札は風にさらされて文字もかすれ、ベンチの木は色あせて軋んでいます。
横に立つ時計は、とっくに針が止まったまま。朝も夜も、ただ空っぽのまま。
けれど、そこにはまいばん、ひとり、またひとりと「おばけたち」がやってくるのです。
コトリがそれを知ったのは、ある夜、森で道に迷ったときでした。
草むらに足をとられて、泣きそうになりながら顔をあげると、月明かりの下にバス停が浮かび上がっていました。
「……え?」
ベンチには、長い髪をひとつに結んだ女の子のおばけがすわっていました。
その顔はどこかしょんぼりして、夜風に肩をすぼめています。
「ねえ、ここ、どこ?」
コトリがたずねると、女の子のおばけはふっと顔をあげて、かすかな声で言いました。
「どこでもないよ。……帰る場所がないものたちが待つところなの」
「帰る場所……?」
コトリが首をかしげると、女の子のおばけは少し笑って、でもすぐに目をふせました。
「わたしね、どこに帰っていいのか、もうわからないの。
まちにも、家にも、だれかにも……もう、なにもつながってないの」
ベンチのうしろを見れば、カバンをぎゅっと抱きしめたまま、眠るようにすわるおばけ。
うしろむきのまま立ちつくし、ただ月を見上げるおばけ。
涙をぬぐいながら、それでも無理に笑おうとするおばけ。
みんなが、どこへも行けないまま、ただそこにいるのでした。
コトリは黙ってとなりにすわり、ぽつりとつぶやきました。
「帰る場所って……どんなところなんだろうね」
女の子のおばけは、しばらく考えてから答えました。
「……うれしかったことを、思い出せるところ、かな」
その言葉をきいて、コトリははっとしました。
「それなら……帰る場所、あるかもしれない」
コトリはポケットを探って、ひとつの小さなビンを取り出しました。
それは、これまで出会ったおばけたちとの思い出が、粒のように集められた“スパイスのビン”です。
ふたをあけると、ふわっと温かい香りが広がりました。
おかゆのにおい。
夜のおしゃべりのにおい。
だれかがだれかを思っていた記憶のにおい。
バス停にいたおばけたちは、その香りを吸いこんで、ふいに笑顔になりました。
「なつかしい……」
「おかあさんのにおい……」
「声が聞こえた気がする」
そのとき。
止まっていた時計の針が、カチリと動きました。
しんとした森の奥から、ごうん、ごうん……と重たい音。
やがて遠くに、光をまとったバスの姿が見えました。
光のバスは静かに近づき、ちゃんとバス停にとまります。
扉がひらくと、中からやさしい声が聞こえました。
「おかえり」
ベンチにいたおばけたちは、そっと立ち上がりました。
涙をぬぐう子もいれば、ぎゅっとカバンを抱きしめる子もいます。
ひとり、またひとりと、光のバスにのりこんでいきました。
最後に、女の子のおばけがコトリの手をにぎりました。
「ありがとう。あなたのおかげで……帰りたい場所を思い出せたよ」
そう言って、バスに乗ったおばけたちは、窓から手をふりながら、月の光の中へと消えていきました。
朝。
コトリが目をさますと、ポケットの中のビンは少しだけ小さくなっていて、中のスパイスがひとつぶだけ減っていました。
けれどコトリは、それを見てふっと笑いました。
あの子たちが帰れたなら、それでいい。
森には鳥の声がひびき、空には新しい朝の光がのぼっていました。