きえたコトリと鏡の森
ある朝のこと。
コトリが目をさますと、世界の色がすこしだけ薄くなっていました。
カーテンの外の空は、まるで水にとけた絵の具のような、うすい水色。
ママの声も、ふだんよりも遠くの方から聞こえるように感じます。
「おはよう」
コトリはベッドから顔を出してあいさつしました。
けれど、ママは振りかえりません。
朝ごはんを用意する音だけが、かしゃん、かしゃんと響いています。
「……ママ?」
コトリはそっと近づいて、ママのうでに手をのばしました。
でも、その手はすりぬけて、ママは気づきもしません。
パパに呼びかけても、鳥かごの小鳥に話しかけても、だれもコトリを見てくれませんでした。
まるで、自分ひとりが空気のなかにとけこんでしまったみたい。
コトリは、しばらく立ちつくしたあと、ぽつりとつぶやきました。
「わたし、きえちゃったの……?」
その瞬間。
部屋のすみに置かれていた古い鏡が、ぴしりと音を立てて割れました。
ひびのすきまからまぶしい光がもれ、ふっと風がふきこみます。
気づけばコトリは、まよい森の奥に立っていました。
そこは「鏡の森」と呼ばれる、だれも知らない場所でした。
あたりはすべてがうすい銀色で、木も、水も、空さえも、鏡のかけらでできているみたい。
葉っぱは小さな鏡となってきらきら光り、足もとの地面もつややかにかがみます。
コトリが一歩ふみだすと、足もとに映った「もうひとりのコトリ」が、ほんのすこし遅れて動きました。
その姿はまるで、自分ではない自分がついてくるようで、心がざわりとしました。
「……だれか、いますか?」
コトリは声をあげました。
けれど、その声は森の奥に吸いこまれ、しんと消えてしまいます。
と、そのとき。
ひとつの鏡の中に、もうひとりのコトリが立っていました。
「あなたは……わたし?」
鏡の中のコトリは、やさしくうなずきました。
「うん。わたしは“きえたコトリ”。だれにも気づかれなかったコトリ。忘れられた、あなたの中のさみしさ」
コトリは言葉を失いました。
鏡のコトリは、ふんわりと笑って続けます。
「あなたはいつも、だれかの話をきいてあげた。泣いている子の手をにぎって、さみしいおばけのそばにいてあげた。でも、自分がさみしいとき……だれかに言えた?」
コトリは、目を伏せました。
思い返せば、そうでした。
おばけたちに笑いかけた夜。
お母さんやお父さんに心配をかけたくなくて、だまって笑った日。
本当は心がきゅっと痛むときだってあったのに、「だいじょうぶ」ばかり言ってきた気がします。
鏡のコトリは、そっと手をさしのべました。
「いいんだよ。それでもあなたは、まちがっていない。でもね、自分の声も、ときどきはきいてあげて。あなたの“さみしい”も、“がんばった”も、ちゃんと大切な声だから」
コトリは、ゆっくりと鏡のコトリの手をとりました。
その手はあたたかくて、なつかしくて、涙がにじむような気持ちになりました。
「……ありがとう」
その一言を口にした瞬間……
パリン!
鏡は大きな音を立ててくだけ散り、銀色のかけらが空に舞いあがりました。
コトリはベッドの上で目をさましました。
カーテンのすきまから朝の光がさしこみ、鳥の声が窓の外で響いています。
ママが台所でお皿をならす音。パパの新聞をめくる音。
ぜんぶ、ちゃんとここにありました。
でも、コトリの胸の奥では、もうひとりのコトリが、やさしく手をふっている気がしたのです。
その日から、コトリは夜寝る前に、小さな声で森にささやくようになりました。
「きょうのわたしも、がんばったよ」
「ちょっとだけ、さみしかったよ」
「でも、だいじょうぶ」
鏡の森は、もう二度と見えません。
けれどそのささやきは、たしかにどこかへ届いていました。
それは、だれかの中で消えかけた気持ちを、そっとつつみこむように。
まるで、きえたコトリが今もとなりで見守っているかのように。