番外編・まちにすむおばけ
町にはたくさんの人がいて、朝から夜まで、いつも忙しく音を立てています。
車のエンジンの響き、信号の点滅、遠くの踏切の音、コンビニのドアチャイム。
笑い声やため息やくしゃみの音まで、すべてが混ざり合って、ひとつの大きなざわめきになっています。
けれどそのすきま、ビルとビルのあいだ、街路樹のかげ、風のうしろがわ。
ふとした物かげや空気のゆらぎのなかに、いくつものおばけが、そっと暮らしているのです。
【かげふみのおばけ】
ビルのすきまにすむおばけ。
昼間はだれかの影にそっと重なり、すこしだけその人の不安や疲れを吸いとってくれます。
人がため息をつくたびに、影の中でおばけもひとつ、やさしく息をつきます。
でも、吸いとるたびに自分が少しずつ透けていくので、夕方には、地面に影すら落とせなくなります。
そのときは、日かげにまぎれて、アスファルトのひんやりした匂いの中で、しずかに力をためます。
夜風が通りすぎるころ、少しずつ輪郭をとりもどして、また新しい朝を待つのです。
【おとしもののおばけ】
駅のホーム、ベンチの下、交差点のまがり角。
だれかが落としたものを、すこしだけ前にずらすのが得意なおばけです。
「気づいて」
「ここだよ」
そんなふうに、声にならない声で、ほんのすこしだけ、落とし主の目にふれる場所にずらしてくれます。
おばけはなにも言いません。
言葉のかわりに、落ち葉や風にそっとささやいてもらいます。
だから、人がそれを拾いあげたとき、小さく風が吹くのです。
それは、ありがとうのかわり。
【ことばをつつむおばけ】
言いすぎたひとことや、伝えそびれた「ごめんね」。
その残り香が空気にまじると、このおばけがあらわれます。
透明なふろしきのような姿で、こわれそうな言葉をそっと包み、しずかに運んでいきます。
受けとる人の胸の中まで、まるで春の風みたいに。
だれも見たことはないけれど、心がすこし軽くなったとき、きっと近くにいるのです。
夜、ひとりの部屋で「大丈夫」とつぶやいた声が、やさしく胸にかえってきたなら、それはおばけのおかげかもしれません。
【てのひらのぬくもりのおばけ】
町のカフェ、電車のつり革、公園のベンチ。
人の手がふれたあとに、すこしだけぬくもりを残すおばけがいます。
そのぬくもりは、寒い日にふれる湯気のようで、つかまえようとすると、するりと消えてしまいます。
でも、それに気づいた子どもが、ふしぎそうに笑って言いました。
「さっきまで、だれかがここにいたんだね」
おばけはその声を聞いて、うれしそうに風にまぎれます。
ほんの一瞬、ベンチのすみに落ちる光が、きらりと揺れる。
それが、おばけの笑顔です。
そして、コトリも、町のおばけたちのことを、だれよりも知っていました。
町で暮らしながら、見えないはずのやさしさや、さみしさの気配を、ちゃんと覚えていたから。
ある夜。コトリは道ばたで立ち止まり、ビルの谷間を見上げました。
風がすこし冷たくなった秋の夜。
遠くで誰かの笑い声がして、信号が赤に変わる音がして。
そのなかで、コトリはそっとつぶやきました。
「ねえ、今日も見ていてくれた?」
その声に、風がやさしくふきぬけ、街灯の明かりが一瞬だけ、やわらかく揺れました。
それは、だれにも気づかれないけれど、たしかにある返事でした。
町のおばけたちは、今日もすきまに暮らしています。
あわただしい世界のなかで、見えないまま、だれかを少しだけ助けて、少しだけあたためて、そして音もなくまた、町の風景のなかにまぎれていきます。
風の通り道のどこかで、コトリの声がひびくたび、おばけたちはしずかにうなずいているのです。




