さいごのもりのおばけ
まよい森の奥に、「おばけが帰っていく道」があります。
それは目に見えず、風のようで、夢のようで、だれにも気づかれないまま、しずかにゆれている道です。
ふだんはどこにあるのかさえわからず、ただ森の奥深くにひそむ気配だけが、夜ごとにすこしずつ形を変えています。
ある春の夜。
コトリはふと目をさまし、胸の奥にかすかな呼び声のようなものを感じました。
音ではなく、においでもなく、ただあたたかい風が頬にふれて「こちらへ」と言っているような感覚。
まるで、だれかに呼ばれたように……
でも、なにも聞こえなかったはずなのに。
森へ足を踏みいれると、空気がしっとりと深くなりました。
夜露が草の先で光を宿し、虫の声が遠くから重なって聞こえます。
ひと足、ひと足進むたび、世界の音が少しずつ薄くなり、かわりに心の奥の音だけがはっきりしていきました。
まよい森の奥は、ふしぎな光でそまっていました。
空からおちる光の粒が、ひとつひとつ、おばけのかたちに変わっていきます。
光はしずくのようにゆれて、やがて小さな影となり、風に揺られるように立ちのぼりました。
たくさんの、これまで出会ったおばけたち。
ちいさいおばけ、やさしいおばけ、顔のないおばけ、ふりをしていたおばけ……
みんながそこにいて、森全体がやさしい息づかいで満ちているようでした。
そして、最後のお別れをしに来ていたのです。
「もう、いっちゃうの?」
コトリがそうたずねると、おばけたちは、風のような声でこたえました。
声というより、葉擦れや水音のような、しずかなひびき。
「いくよ。でも、さようならじゃない」
「忘れないで。わたしたちが『いた』ということを」
「見えなくても、もう一度会えることがある」
その声が重なるたびに、森の影がすこしずつ光にほどけ、まるで夜そのものが羽を閉じる鳥のように見えました。
そして、最後に、とてもおおきなおばけがコトリに近づきました。
それは、おばけたちみんなの記憶をあつめたような、すべての気配を身にまとった、おばけ。
山のようにおおきく、しかし風のようにやわらかく、輪郭は光と影が交互にゆらめいています。
「ありがとう、コトリ。きみが、わたしたちを『いる』と思ってくれたから、わたしたちは、ここにいられた」
おばけはコトリをやさしく見つめながら、深い息をひとつ吐くように、続けました。
「コトリ、きみも、きっとおばけを見なくなる日がくる。でも、悲しまないで。きみのなかにある、たしかな『やさしさ』が、また新しいおばけを生むから」
その言葉を聞いたとき、コトリは、自分のなかで、なにかがすっと芽吹くのを感じました。
胸の奥にひかりの芽がぽつりと生まれたような、あたたかい感覚。
もうすぐ、このまよい森を出ることになる。
でも、まよい森が、そしておばけたちが、ずっと自分のなかに生きつづけると、はっきり思えたのです。
そしておばけたちは、光のつぶになって、一人ずつ、風にのって消えていきました。
ひとつ消えるたび、鳥の声がひとつ増えるように、森がすこしずつ目をさましはじめます。
すこしもさみしくない、すこしもこわくない。
きっとみんな、生まれ変わるから。
朝。コトリはまよい森を出ていきました。
小さなリュックの中には、葉っぱでできた手紙、ほつれたリボン、小さな光のつぶ……
どれも、おばけたちのくれたもの。
歩きながらコトリはふりかえり、森の奥にそっとつぶやきました。
「また会えるよね。きっと、どこかで」
そして、まよい森の奥の奥。
だれもいないはずの空間に、ふわりと風が吹き、あたたかい光がひとしずく落ち、新しいおばけが、そっと目をさましました。




