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やさしさだけをのこすおばけ

 まよい森のなかに、気配だけのおばけが住んでいます。

 そのおばけは、なまえもなく、声もなく、姿もありません。

 ふれることもできず、見ることもできない。

 けれど朝になって、気がつくと、そこにはおばけがのこしたやさしさだけが、たしかにそっとあるのです。

 森の朝は、ひんやりとしていて、葉のうえには小さな露がたくさん並んでいます。

 風が通るたび、それが光をはじいて、きらきらと細かく揺れました。

 鳥たちの声がゆっくりと目をさますように広がり、木々のあいだから小さな光が落ちてきます。


 そんな朝のことでした。

 コトリは落ち葉のあいだから、つぶれてしまったどんぐりを見つけました。

「だれかがふんじゃったのかな……」

 指先でそっとつつくと、どんぐりの殻はやわらかくつぶれて、かすかな甘い匂いがしました。

 でも、そのすぐそばに、まるくてきれいなどんぐりが、ひとつだけぽつんと置かれていました。

「……これ、かわりに置いてくれたの?」

 コトリはまわりを見ました。

 でも、だれもいません。

 風の音がするだけ。

 木の枝がきい、と鳴って、小さな影がゆらゆらと地面を渡っていきます。

「だれかいるの?」

 コトリがたずねても、返事は返ってきませんでした。

 ただ、しずかな森の音と、だれかのやさしさだけがありました。


 それからというもの、そんなことが何度も続きました。

 落とした手袋が、朝にはそっと木の枝にかけられていたり。

 風でとんでいったリボンが、いつのまにか家の戸口に結びつけられていたり。

 さみしくて泣いた夜のあと、目をさますと、そばにふわふわの葉っぱが重ねられていたり。

 森のなかには、だれかが見ていてくれるような気配が、たしかにあったのです。

「だれが、してくれたんだろう……?」

 コトリがまわりを見ても、やっぱりだれもいません。

 でも、落ち葉の上には、やわらかい風の跡のようなものがのこっていて、そこからかすかにあたたかい気配が広がっていくようでした。


 ある夜、コトリはまよい森で、そっと目をとじました。

 木のざわめきが、子守唄のように耳の奥でひびいています。

 遠くで虫の声がかすかに重なり、空には淡い月の光が浮かんでいました。

 コトリはその光のなかで、しずかにこころのなかでつぶやきました。

「ありがとう。わたし、見えなくてもちゃんと知ってるよ。やさしさって、声よりも深く届くから。あなたのやさしさ、ちゃんと届いてるよ」

 そのとき、ほんのすこしだけ、風がふいて、コトリのほほをなでました。

 やわらかく、あたたかく、なつかしい手のひらでそっと包まれるような風でした。

 涙がひとしずくだけ、しずかに落ちて、夜の土の匂いと混ざりました。


 翌朝。

 コトリのまくらもとには、ちいさな葉っぱでつくられた手紙のようなものが置いてありました。

 葉っぱはまだ朝露をまとっていて、光をうけてほのかに光っていました。

 そこにはなにも書かれていなかったけれど、たしかに、だれかの「ありがとう」の気持ちがこもっていると、わかりました。

「わたし、あなたのやさしさがあるから、さみしくないよ。だから、こちらこそありがとう」

 コトリはやさしく、しずかに、こころのなかで手紙に返事をしました。

 すると、窓のすきまから入ってきた風が、紙のような葉っぱをふわりと持ちあげ、空へとのぼるように、やさしく舞い上がっていきました。


 やさしさは、かたちにならなくても、ちゃんと人の心に届いている。

 だれにも見えないおばけは、だからこそ、いちばん近くにいて、今日もまた、そっと、なにも言わずに、だれかの涙をふいているのです。

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