おおきすぎるおばけ
ある朝、コトリがまよい森を歩いていると、とつぜん、木々のあいだから風とはちがう空気がふいてきました。
ざわざわ……ざわざわ……
森の葉っぱがふるえ、地面の草がすこしずつ傾いていきます。
なにかが、ものすごく大きなものが、そっと動いている気配。
でも、そこには何も見えません。
鳥たちは鳴くのをやめ、遠くの川の音だけがかすかに聞こえていました。
ふと見ると、足もとの小石がふわっと浮いたかと思うと、またすとんと落ちました。
まるで森全体が息をしているようでした。
「へんなの……」
コトリは首をかしげながら、空を見上げました。
青空のいちばん高いところで、雲がひとつ、形をゆっくり変えながら流れていきました。
それが、だれかの“背中”のような気がして、なぜだか胸がすこし高鳴りました。
その夜。
コトリは丘の上にのぼり、まるい月を見ていました。
森はしんとして、虫の声さえ遠く、空気の底がひんやりしていました。
そのとき、月の光がふっとかげりました。
まるで、とても大きなものが、空の上をゆっくりと横切ったような……
風がすこし震え、草の葉がなでられるように揺れました。
すると、ふしぎな声が、どこからともなく、頭のなかに届きました。
『……わたしが見えるのかい?』
コトリが目をこらすと、そこにいたのは、夜空に溶けこむような、おおきな、おおきなおばけ。
その姿は、まるで空そのものがゆれているようでした。
月よりも大きく、山よりも高く、でも風よりもしずか。
黒と銀のあいだに漂うその体は、雲をやさしく包み、星の光をそっとやわらげていました。
「あなた……どうしてそんなに大きいの?」
コトリがたずねると、おばけはゆるやかに答えました。
『だれかの悲しみや、さみしさをつつむうちに、わたしは、こんなに大きくなったんだよ』
おばけは、昔からまよい森の上にいたそうです。
だれかが泣いているとき、そっとその上にかさなるように立ち、泣き声が空にのぼらないように、やさしくおおってきたのだといいます。
そうして何百年ものあいだ、だれの涙も光も、ぜんぶ包んでいるうちに、
おばけはどんどんふくらみ、ついには空いっぱいに広がってしまったのです。
『でもね』
おばけの声が、風の奥で少し震えました。
『わたしは大きくなりすぎて、もうだれの家にも近づけない。森の奥の空の下で、こうしているしかないんだ。ほんとうは、だれかにありがとうって言ってもらいたいのに』
コトリはしばらく考えました。
しずかな夜。遠くでふくろうが鳴き、木の枝がきいっと小さくきしみました。
そして、コトリは胸いっぱいに息をすって、両手を大きく広げて言いました。
「ありがとう! わたし、たぶん小さいとき、あなたに包まれてたことある!」
おばけの巨大な影が、ゆっくりと月の光をやわらげました。
コトリは続けて言いました。
「大きな音がこわかった夜、急にさみしくなった日、どうして泣きたいのかもわからなかったとき……きっと、あなたがそばにいたんだと思う」
そのことばを聞いたおばけは、何も言いませんでした。
ただ、空気があたたかくふるえ、星がひとつ、ぽとりと涙のようにこぼれました。
その星の光は、森をやさしく照らし、木々の影をやわらかく抱きしめました。
その夜、まよい森はいつもよりしずかでした。
風はやさしく、空はどこまでも深く、そして、やさしい黒に包まれていました。
コトリはそのなかで目をとじ、ひとりじゃないことを、しずかに感じていました。
見えないものが、いちばんそばにいることもある。
声を出さないだれかが、ずっと見守っていることもある。
おおきすぎるおばけは、今もまよい森の上空で、だれにも知られず、だれかの心によりそいながら、月のまぶしさを、そっとやわらげています。
夜空の奥に光る星のひとつひとつは、そのおばけの「ありがとう」の返事なのかもしれません。




