9
じっとりとした空気が、全身にのしかかって来る。
異臭が鼻につき、不快感に眉を顰めた。
『森の奥から強大な気配がする。おそらくフェンリルだな。気をつけるのだぞ、あやめ』
「了解。戦闘になったらお任せするね」
『ああ、任せろ』
森の中を進んでいくと、獣道すらもない道なき道へとなっていく。幸いなのは、下草が立ち枯れていることだろうか。
枯れ草を踏みしめながら進んでいくと、森の奥はますます暗くなっていく。
『っあやめ!』
「わ、きゃっ」
森の奥深く、大樹の後ろから黒い影が飛び出してきた。
大きくなったゼフィールが私を掴んで飛び立ちその直下を黒い影が掠めるように走り抜ける。
『あやめ、しばしここに居ろ』
大樹の上に太く張り出した枝の上、そこに私を置いたゼフィールは、改めて黒い影に向かって降り立っていった。
あの黒い影は、フェンリルだろう。
神獣同士だけあって、戦いは熾烈を極めた。
ゼフィールが爪で襲い掛かれば、フェンリルは木々を蹴ってその間を飛ぶようにして避ける。フェンリルが襲い掛かれば、ゼフィールは尾を振ってそれを跳ね除けた。
しかし、神獣同士といえども、かたや穢れに侵されて理性を失っている身。フェンリルの挙動は単調で、徐々にゼフィールが押していった。
そしてついに——。
「グルルゥゥ。グアア!」
フェンリルはゼフィールに押さえつけられて、唸り声を上げる。
「ゼフィール、ナイス!」
『ないすとはなんだ?』
きょとんとした顔で、ゼフィールはフェンリルを押さえつけたまま首を傾げる。フェンリルはゼフィールの足の下でグルルと唸りつつも、その足の下から逃れることはできない。
私は急いでペットバスをゼフィールの足元に顕現させ、ゼフィールごとフェンリルを濡らした。
「泡召喚!」
フェンリルを泡で包み込み、早く浄化してあげられるようにと祈りながら、念力の腕で洗い上げていく。苦しげに唸りながら暴れているから可哀想ではあるけれど、浄化するためだ、しっかり押さえて洗っていく。
フェンリルを包み込んでいた黒い靄は徐々に灰色になっていき、ついには白く薄れて消えていった。
「フェンリルさん、大丈夫?」
フェンリルの瞳に徐々に理性の光が戻ってきたので、話しかける。すると、ゼフィールと同じ魔法の力で、フェンリルが応えてきた。
『聖女ですか。これが浄化の力……。感謝します』
静かなその声には、疲れと悲しみが滲んでいた。この森で起きた邪法の儀式を考えれば、そんな風な声になるのもおかしくはなさそうだ。生贄を捧げられる側の気持ちってどんななんだろう。それがもし善良な存在だったならば、きっとひどく心を痛めるのではないだろうか。
疲れたように顔を伏せるフェンリルを、あたたかなお湯で洗い流していく。すっかり穢れの取れた体は、しかし痩せ細っていた。
「かわいそうに……こんなに痩せ細って」
『大事ありません。聖女の浄化の力のおかげで、私の理性も戻りました。これからは徐々に回復していくでしょう』
ゼフィールの力で乾いたフェンリルは、白銀の毛を風にそよがせながら目を細めた。
『しかし、森もひどい有様ですね。これでは元に戻るのに何年かかるか』
「フェンリルさんが元に戻れば森も徐々に戻っていくのでしょうか?」
『ええ、私が穢れに染まってしまっていたせいで森も影響を受けたのでしょう。ですが、この森で過ごすのはなかなか辛いものがあります。聖女よ、あなたの旅に私も同行させていただけませんか?』
フェンリルは森を見渡すと、はあと嘆息して、私の方を見つめてきた。もしこの美しくふわふわなフェンリルさんが私の旅に同行してくれるなら嬉しいけれど、フェンリルの森からフェンリルがいなくなってもいいのだろうか。
「もし同行してもらえるなら嬉しいけれど、フェンリルさんは森を離れても大丈夫なの?」
『森が息を吹き返すまで、離れていたほうがいいでしょう。また穢れに呑み込まれても困りますゆえ』
『そうだな。このような環境は我々神獣が暮らすには少々居心地が悪い。聖女のそば以上の環境はないだろうよ』
ゼフィールも賛成しているし、連れていっちゃってもいいのかな。確かにこの腐臭漂う森は、暮らすにはしんどそうだ。
森自体は、主であるフェンリルが穢れから解放された時点で、徐々に戻っていくだろうということだったけれど、戻るまでの間ここで暮らさせるのも酷である。
「わかったわ。フェンリルさん、ついてきて。そういえば、フェンリルさんってお名前はあるの?」
フェンリル、っていうのは種族名のはずだ。ドラゴンと同じように。だったら、名前とかもあるのだろうか。
『ルナール。私の名前は、ルナールです』
「ルナール……。よろしくね。じゃあ、森から出ましょうか」
『それなら、私の背に乗ってください』
「ありがとう」
森の木々の間を移動するには、ゼフィールは大きすぎる。一方でフェンリルは森の狼だけあって、木々の間を器用に移動することができた。
伏せたルナールの背中によじ登り、毛に埋もれながらしっかりと背中の毛を掴む。
『いきますよ』
ルナールはそう声をかけてくると、一気に森の中を駆け始めた。
木々は飛ぶようにすぎていく。何か魔法の力が働いているのか、案外乗り心地はよく、落とされそうになることもない。
『聖女、これからどこへ向かうなどはあるのですか?』
「そうねぇ、どうしようかしら」
ルナールの言葉に、思案する。私を召喚したテリア王国が嫌で、隣国まで来たはいいけれど、特にその先のことは考えていなかった。
私が考えながら唸っていると、小さくなって肩に乗ったゼフィールが魔法の力で言葉を伝えてくる。
『あやめよ、とりみんぐとやらで浄化の力を持つものを増やせるのであれば、王都などの使役魔獣や獣人が多い場所へ赴き、とりみんぐを沢山するのがよいのではないか』