井戸の上澄水
絶対に、あの井戸を覗いてはいけない。
親友の雄太から聞いたのは、うちの小学校にある使われていない井戸に関する噂だった。
「そんなに、井戸が危ないの?」
「違うよ玲、井戸の水が危険なんだ」
暑い夏の日差しの中、私は長い黒髪を一つに束ね、ゴムでくくる。そして、雄太と共に花壇を手入れし始めた。
私は噂話など信じない。きっと何か裏があるに決まっている。
「あの井戸はもう使われてないでしょ? ずっと蓋で閉じているし、水が溜まるはずがないよ」
「それはそうなんだけど、あの蓋、ちょっと隙間があってね、そこから雨が入って水が溜まるらしいんだよ」
なるほど、理屈は分かる。でも、何が危険なのだろうか。
雄太は手についた土を払い、大きく伸びをする。
「じゃあ、雨水が危険なの?」
「雨水かどうかは関係ない。とにかく、あの井戸に溜まる水が危険なんだよ」
危険、危険、と言うばかりで、詳しいことを教えてくれない。私はもどかしくなり、雄太を問い詰める。
「もう、もったいぶらないで教えてよ」
「俺にも分からないんだよ。ただ、一か月に一度、あの井戸の周りを当番二人が掃除に行くだろう? その時、片方が数時間行方不明になることがあるらしいんだ」
使われていない井戸など、撤去してしまえばいいのに。そう思いながらも、私たち六年生は一か月に一度、あの辺の草むしりを当番制でやっている。確か、あの井戸のそばには、立ち入り禁止の看板が立っていたはずだ。
「行方不明? そんな話聞いたことない」
「そりゃそうだよ。先生が一生懸命隠しているんだから。でも、噂は俺たちの間で広まっているよ」
たった数分、二人で草むしりをするだけだというのに、井戸に近づく暇も、行方不明になる要素も、全くもって見当たらない。
「それって、一人サボっているだけじゃ……」
「俺、この前当番だった二人に聞いたんだよ。一人は、気が付いたら相方がいなくなってたって。もう一人は、井戸の水は綺麗だったって」
雄太の話のとおりなら、一人は確実に井戸に近づいている。
「井戸の水が綺麗だったなんて。そんなわけない」
「俺もそう思う。そいつ、その日の昼休みの掃除から放課後まで、学校からいなくなってたんだ。その日の事は、井戸の水は綺麗だった、しか言わなくてさ」
数時間、行方不明になっていた自覚が、本人にはないようだ。本当に、井戸をずっと見ていたのだろうか。
「それで、覗いたらいけないって、結局どういうこと?」
「だって、井戸の水は綺麗だったってことは、井戸を覗いたってことだろう? もしそれが原因で行方不明になっているんだとしたら、多分覗いたらおしまいなんだ」
逆に覗いただけで行方不明なんて、私には理解できない。
「それ、先生は確認したの?」
「一応はしたみたい。でも、その先生も、井戸の水は綺麗だった、としか言わないらしい」
こんなの噂でもなんでもない。きっと、みんなが口裏を合わせて、井戸に近づかないように怖がらせているんだ。
「私、絶対に信じないからね。別に、井戸に近づこうとも思わないけど」
「玲は本当に現実主義だな。お化けとか妖怪とか、いるかもしれないだろ」
私からしたら、こんな噂話を信じる雄太のほうが不思議だ。お化けなんているはずない。見えなければいないのと同じこと。
「ほら、もう昼休みが終わっちゃう」
「そういえば、次の当番は俺たちだったよな」
スコップをバケツに入れ、最後にジョウロで花壇に水をやる。雄太は噂のことが気がかりなのか、全然手を動かそうとしない。
「雄太、もしかして怖がってるの?」
「そ、そんなんじゃないって。ただ、玲が心配なんだよ」
私をきっと妹のように思っているのだろう。雄太の本当の妹は、病気で亡くなってしまったから。誰かがいなくなるということが怖いのだ。
「私は大丈夫だって。雄太も、井戸に近づかないようにすれば、お互い大丈夫でしょ?」
「そう、だよな。バケツ、俺が持つよ」
雄太の表情は暗いままだったが、この噂は杞憂だったって、いずれ気づくはずだ。
次の日、教室で男子たちが話しているのを、私は横目で見ていた。
「なあ、雄太。放課後に井戸を確認しに行こうぜ」
「やめた方がいいんじゃないか? 元々あそこは立ち入り禁止だし」
「雄太は臆病だな。そんなんじゃ玲ちゃんを振り向かせるなんて、出来ないぜ?」
雄太は、私とよく一緒にいるから、何かと勘違いされやすい。私たちは決して、そんな関係ではないのだ。
「玲は! 玲はそんなんじゃないよ……。分かった、行けばいいんだろ」
「よし、決まりだな」
大丈夫だろうか。雄太の顔が、青ざめている気がする。私は我慢できず、会話に口を挟んだ。
「雄太は、行きたくないって言ってるでしょ」
「なんだよ、まさか噂が本当だって思ってるのかよ」
「違う、雄太が嫌がってるから……」
雄太は気まずそうな顔をしている。私は今、何に怖がっているのだろう。
「玲、大丈夫だよ。俺、行くから」
「せっかくだし、玲ちゃんも連れて行ったらいいんじゃないか?」
「え、玲は関係ないだろ!」
そうだ、信じていないなら一緒に行って確かめればいい。私は、噂なんか信じていないんだから。
「分かった。その代わり、何もなかったら雄太に謝ってよね」
「玲ちゃんは怖いなあ。分かった分かった、それでいこう」
「ごめん、玲……」
こうして私たちは、井戸を確認しに行くことになった。
放課後、私と雄太、他男子二人を合わせ、四人で井戸へと向かった。
「これが、噂の井戸……」
雄太はまじまじと井戸を見ている。もちろん、井戸は蓋が閉まったままだ。
「開けてみようぜ」
男子二人が蓋を開けようとするが、重たくてびくともしない。
「なんだよ、開かねえじゃん」
私はおかしいことに気づいた。二人がかりでも開かない蓋があるのに、どうやって井戸を覗いたのだろうか。
「もう帰ろうぜ」
「ちょ、ちょっと……!」
雄太は何も言わずその場に立ち尽くしている。男子二人は私たちを置いて、先に帰ってしまった。
「雄太、私たちも帰ろう」
「う、うん……」
噂はやっぱりでたらめだった。それどころか、覗きさえできなかったのだ。
「雄太?」
「あ、えっと、ごめん。帰ろうか」
私たちも井戸を離れ、一言も喋ることなく、校舎に戻ってきた。
「雄太、本当に大丈夫?」
歩きながら後ろにいるはずの雄太に話しかけたが、返事がこない。
「あれ……雄太?」
確実に一緒に戻ってきたはずだった。しかし、後ろを振り向いた時には雄太の姿はなかった。
「どこに行ったの? 脅かさないでよ」
考えたくはないが、井戸に戻ったのかもしれない。私は駆け足で来た道を引き返す。噂なんか嘘っぱちだ、だから、雄太がいなくなることはない。
「ゆ、雄太……」
井戸の前に、雄太が立っていた。そして、開かなかったはずの蓋が、開いている。
「雄太、何してるの?」
「玲こそ、どこに行ってたんだ」
そこにはいつも通りの、雄太がいる。
「も、もしかして、覗いたの?」
「そうだな、井戸の水は綺麗だったよ」
雄太がそんなことを言うはずがない。井戸に溜まった雨水が、綺麗なはずがないから。
「何言ってるの、そんなわけ……」
「綺麗だったんだよ。玲、もう帰ろうか」
私はおかしいと思いながらも、雄太と一緒に帰ることにした。
あの日から特に変わったことはなく、当番の日がやってきた。
「雄太、掃除!」
「待ってよ玲、ただの草むしりだろ?」
井戸の近くを通ると、あの日の雄太の言動を思い出す。
『井戸の水は綺麗だった』
どうも私は、あの井戸が気になって仕方がなかった。あの日は、そんなことなかったのに。
「草むしりって……草だらけじゃん」
「適当でいいんだよ。俺はあっちの方やるから、玲はこの辺をお願い」
雄太が私に指定したのは、よりによって井戸の近くだった。
「え、でも……」
「噂なんてないんだろ。大丈夫だって」
前だったら絶対に言わないだろう言葉を、雄太は平気な顔で私に言い放った。あんなに心配してくれていたのに、井戸には近づくなと、警告していたのに。
「分かった……」
「じゃあ、またあとで」
しばらくはおとなしく草むしりをしていたが、どうしても井戸を覗きたくて、私は自分でも気づかないうちに、井戸へと近づいていた。
「蓋が、開いてる」
誰が開けたのだろうか。小学生の力では開けられないことは、あの日に分かっている。しかし、大人が不用心に開けるとも思えなかった。
「ちょっとだけならいいよね」
井戸は私の身長で言うと、胸の高さぐらいある。覗くことは容易ではないが、少し背を伸ばせば、出来なくはない。
「綺麗な水……」
そこには雄太の言う通り、透き通った綺麗な水が溜まっていた。覗いた瞬間、誰かに見られているような気がして、一旦後ろを振り返ったが、誰もいない。そもそも、気配は後ろからではなく、真正面から感じる。
「水の中……?」
水面には私が写っている。透き通っているのに、はっきりと写っているのだ。
私は何かに誘われるように、その水に触れてしまった。
「待っていたよ」
水に写った私がにやりと笑う。その瞬間私は誰かに腕を掴まれ、水中に引きずり込まれた。
気が付くと、そこはどこか薄暗い知らない場所だった。
「ここはどこ?」
上を見上げると、遠くに空が見える。そして、誰かが覗いている。
「あれは……私?」
私が私を覗いている。耳を澄ますと、雄太のこもった声が聞こえてきた。
「玲、草むしり終わったか?」
「うん。戻ろうか」
違う、あれは私ではない。
「雄太! 私はここだよ! 行かないで!」
「聞こえないよ。もう君は、ここの住人だから」
誰かが私に話しかけている。姿は見えない。
「誰なの? ここから出してよ!」
「無理だよ。ここは井戸の底、影の潜む場所。上澄みに写った君は、影と入れ替わったんだ」
外から見えた水はあんなに綺麗だったのに、ここはまるで真逆だ。
「私、こんなはずじゃ……」
「君は誘われたんだよ、この井戸の水に。綺麗だっただろう? 表面上は」
噂の真実は、こういう事だったんだ。興味に惹かれて、綺麗なものに惑わされ、そうして私は、もう真の暗闇から抜け出せない。