絶望のなか、まだ息をしている
朝、目が覚めたとき、天井が少しだけ遠くに見えた気がした。
換気の甘い部屋に溜まったぬるい空気が、まだ寝ていたいと訴えている。
でも、時計の針は裏切るように、進み続けていた。
特に嫌なことがあるわけじゃない。
今日も、昨日と同じ教室に行くだけのことだ。
ただ、身体の奥で、何かが微かに軋む音がする。
それが何なのか、うまく言葉にできない。
たとえば、窓を開けたら風が吹いてくるように。
誰かと話せば、いつか心が軽くなるように。
そんなふうに思えた頃が、確かにあった。
でも今はもう、誰と話していても、自分の声だけが遠くに感じる。
まるで誰かになりきって喋っているような、薄い感覚。
僕は今日も、学校へ向かう。
無意識にリピートされる「普通」のふりをまといながら。
教室に入った瞬間、空気が少しだけざわめいたような気がした。
けれどそれは、たぶん気のせいだったのだと思う。
誰かが笑い、誰かがあくびをし、誰かがスマホを弄っている。
いつもと同じ、見慣れた光景。
それなのに、僕にはどこか遠い国の出来事のように感じられた。
「おはよ、透」
声をかけてきたのは、小野寺優芽だった。
小さな声だったけれど、よく通る。
「……おはよう」
少し間を置いてから返すと、彼女はかすかに笑った。
それが、どこか寂しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「今日、放課後……寄り道しない? 話したいことがあって」
その誘いに、僕はうまく反応できなかった。
彼女は昔から、僕の“変な沈黙”に慣れていた。
答えを急かさず、むしろそれを織り込んで、話しかけてくる。
僕と同じ空気を吸いながら、違う場所に立っているような人。
けれど、唯一“こっち側”に来ようとしてくれる人。
「……いいよ。たぶん」
たぶん。
その一言は、自分の中で何かを決めかねている証拠だった。
優芽はそれでもうなずき、また小さく笑った。
優芽が「少しだけ、寄りたい場所がある」と言った。
向かった先は、校舎の隅にある古びた図書室だった。
書架の間に差し込む夕日が、埃を照らして黄金色に舞っていた。
「放課後ってさ、誰もいないから好きなんだ」
優芽はぽつりと言って、窓際の席に腰を下ろす。
僕も隣に座った。
周りには誰もいない。
けれどその静けさは、不思議と居心地が悪くなかった。
「透は、本とか読む人?」
「……あんまり。活字が、時々眩しく見えるから」
優芽はクスリと笑った。
「それ、わかるかも」
本棚の間から、午後の光が形を変えながら差し込んでいた。
その光の中で、澪がカバンからチョコレートを取り出して僕に差し出す。
「これ、今日のごほうび」
僕は受け取りながら、彼女の指先が少し冷たいことに気づいた。
包み紙の音だけが、静かな図書室に響いた。
「ありがと」
それだけを言うと、しばらく沈黙が流れた。
でもその沈黙も、悪くなかった。
その日は、雨が降った。
学校を出る頃にはほとんど止んでいたけれど、地面にはまだ水たまりが点在していた。
僕は傘を差さずに、歩き出した。
優芽と会う約束をしていたわけじゃない。
けれど、自然と足は駅の近くのあの小さな古書店へと向かっていた。
前に彼女が、「たまに行くんだ」と話していた店。
暖色のランプが灯る静かな店先に、ひっそりと澪が立っていた。
「……やっぱり来ると思った」
彼女は僕を見るなり、ほっとしたように笑った。
店には入らず、僕たちはそのまま近くの小さな路地裏へと歩いた。
雨に濡れたアスファルトが、街灯の光を歪ませていた。
誰もいない、静かな道。
僕たちは並んで歩き、何も話さなかった。
けれどその沈黙は、昨日より少しやわらかかった。
「……透って、昔よりずっと我慢してる気がする」
優芽がつぶやいた。
「喋ることも、怒ることも、泣くことも。
まるで全部、自分の中に押し込めようとしてる」
僕は立ち止まった。
雨粒が、まだ空からわずかに落ちてくる。
「違う?」
優芽の声は穏やかだった。
詰め寄るわけでもなく、ただそこに置かれるような声だった。
「……わかんない」
それは、本当の答えだった。
「ただ……」
僕は声を継いだ。
「たぶん、自分がちゃんと喋ったら……壊れてしまうような気がしてた」
言葉を吐き出すたびに、心の奥に仕舞っていた何かが軋む音を立てた。
優芽は何も言わなかった。
ただ、傘の柄をぎゅっと握り直した。
路地裏の静けさは、まるで世界から切り離されたようだった。
街の喧騒も、遠くの車の音も、もう耳には入らなかった。
僕の中で何かが、ゆっくりと、言葉を探していた。
「……僕ね」
言いかけて、少し間を置いた。
優芽はなにも言わずに待っていた。
「僕の中には、絶望と虚無、そして……ほんのわずかな希望が同居してる」
自分の声が、自分の耳にもかすかに震えて聞こえた。
「だからこそ、苦しいんだ。
どこかで全部諦めたいと思ってるのに、
どこかで……ほんの少しだけ、生きていたいとも思ってしまう」
息を吐くと、肺の奥から熱が抜けていった。
「それが、ずっと……消えてくれなかった」
沈黙。
その間に、空気が少しやわらいだような気がした。
優芽が、そっと僕の袖を掴んだ。
その手は少しだけ冷たくて、だけど確かにあたたかかった。
「それでいいんだよ」
彼女はそう言った。
何も解決したわけじゃない。
明日になれば、また僕は同じように呼吸が重くなるだろう。
でもこの瞬間だけは、
自分の奥に沈めていた言葉が、ようやく世界の上に浮かび上がった気がした。
だから、少しだけ、救われた気がした。