“考えない”という凡庸な態度が、最も恐ろしい悪を可能にする。
「“考えない”という凡庸な態度が、最も恐ろしい悪を可能にする。」
この言葉は、ナチス政権下でホロコーストに加担した官僚アドルフ・アイヒマンを分析したハンナ・アーレントによる、現代倫理への鋭い警鐘である。アイヒマンは狂信的な殺人者ではなかった。上司の命令に従い、事務的に仕事をこなしただけの、平凡な人間だった。だが彼は、「自分が何をしているのか」を一度も真剣に考えなかった。ただ命令に忠実であることを美徳とし、責任を回避した。ここにこそ、アーレントが名付けた「悪の凡庸さ(the banality of evil)」がある。
この構造は、現代社会においても決して過去のものではない。むしろ、今こそ私たちは「考えることをやめることの危険性」を真剣に直視しなければならない。たとえば、SNSでは“空気”に流される発言や同調的な行動が日常的に繰り返されている。ある特定の個人が標的とされ、匿名の群衆によって一斉に攻撃される場面を私たちは何度も目にしてきた。その中には、自分が何に加担しているのか、深く考えずに「正義のつもりで」加勢している人々も多い。誰かの“命令”や“空気”に従って動いてしまう点では、彼らはアイヒマンと構造的に変わらない。
また、企業や官僚制度における「マニュアル遵守」の徹底も、時に倫理的判断を麻痺させる。決められた手順に従って処理することに注力するあまり、その背後にいる人間の苦しみや社会的影響に無関心になってしまう。たとえ個人が善意を持っていても、「自分は決めていない」「上からの指示だ」という姿勢が、結果として重大な人権侵害や差別的政策を支えてしまうことがある。
アーレントが問うたのは、「私たちは自分の行為を自分の名で引き受けているか?」という一点だ。正しさは、制度や他者から与えられるものではない。他者と共に生きるなかで、「それは本当に正しいか」「自分はそれに納得しているか」を問い続けることが倫理の土台なのである。“考えない”という態度は、外見上は無関心で無害に見えても、その実、最も重大な悪を支える“静かな共犯”である。だからこそ現代において、思考することをやめない勇気、沈黙しない良心こそが、最も根源的な倫理であり、自由社会の最後の防波堤となる。