花咲く場所で
春の風が吹き抜ける。
王都の南にある小さな村。畑が広がり、木造の家が立ち並ぶ、どこにでもある静かな集落。
そこに、一軒の家が建てられたばかりだった。
「リセル、手伝おうか?」
「いい、慣れてるから。あなたはそっちの土間を仕上げて」
「了解」
薪を積むセレフの声が、すっかり柔らかくなっていた。
かつて“魔術師”と呼ばれた彼は、いまでは“石組みと農作業をちょっと知ってる変わった村人”として、村に溶け込みつつある。
一方、リセル——いや、ミーアと名乗るようになった彼女は、村の診療と子どもたちの勉強を見る仕事を始めていた。
兵団の知識と、自身の過去を生かす暮らし。静かで、穏やかで、だが決して“退屈”ではなかった。
村の外れに、一本の木が植えられている。
あの廃村で芽吹いた木を、二人で移してきたものだった。
「この木、名前つけようか」
「また魔法の言葉でもつけるの?」
「違う。“ただの木”として名前がほしい。誰かの呪いも願いも背負わない木。……そういう存在にしたいんだ」
ミーアは考えた末、言った。
「じゃあ、“ノミナ”。名前、という意味。誰にも奪われない、誰にもしばられない、名前」
風が吹き抜け、ノミナの若葉が揺れた。
それを見ながら、ミーアがぽつりとつぶやく。
「私ね、婚姻って形式にこだわる気はもうないの。でも、あなたと生きたいとは思ってる」
「僕も。だから、“未来の申し込み”をした」
「なら、契約する?」
「ふふ、それはちょっと物騒な響きだ」
「そう? じゃあ……“言葉を交わす”ってのは?」
「それなら」
セレフは立ち上がり、ミーアの手を取り、小さく囁いた。
「生涯、隣にいてもいいですか」
「考えておく」
ミーアは少し笑ってから、付け加えた。
「たぶん、明日には“はい”って言ってると思う」
「じゃあ、明日を待ちます」
この村には、魔法も呪いもない。
あるのは、働き、食べ、眠り、時折笑い合う日常だけ。
けれど二人にとっては、それが何よりも奇跡だった。
かつて、名前を失った少女と、名を偽った男。
その二人が、今は誰の目も気にせず、肩を並べて畑を耕す。
それは——どんな魔法よりも、きっと強い“契約”だった。
——終わり。
あるいは、ここから始まる物語。