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名前を捨てた女

リセルには「十五から十九までの記憶が曖昧な時期」がある。

 兵団に入る前、故郷の村で暮らしていたはずなのに、その頃の情景は夢のようにぼやけていた。


 ある日の夜、彼女は夢を見た。

 月の下、風の強い崖の上。白い草花に囲まれた小道で、誰かに呼ばれていた。


——ミーア。

——ミーア、こっちだ。


 目を覚ますと、汗をかいていた。

 だが、それよりも胸の奥に奇妙な感情が渦巻いていた。懐かしさとも、怖さともつかない、得体の知れない熱。


「……セレフ」


 次に彼と会ったとき、彼女は切り出した。


「あなた、“ミーア・ベルド”に何をしたの?」


「え?」


「その人……私かもしれない」


 


 セレフの顔が、見る間に蒼白になった。


「冗談、ですよね?」


「冗談で言ってるなら、もっとマシな演技するわよ。正直、確証はない。でも、私は記憶をなくしてる。“辺境の村”で何があったのか、まるで思い出せない時期があるの。名前だって……リセル・カルナって、兵団入りのときに登録した名よ」


「じゃあ、君が……?」


「ミーアだったのかもしれないってこと」


 


 セレフは座り込んだ。手が震えていた。

 彼女が三人目だった。呪いの“代償”になったはずの相手。


 だとすれば、彼女は死んだはずだった。


「あり得ない……呪いが本当に効いていたなら、君は今ここにいるはずがない。じゃあ、何が……」


「何かがあったのよ。何か、私を“助けた”何かが」


 リセルは懐から、兵団時代から肌身離さず持っていた古びたペンダントを取り出した。

 誰からもらったか覚えていない。それでも、なぜか手放せなかった。


 セレフがそれに目をやった瞬間、息を呑んだ。


「それ……君が僕に贈ってくれた護符です。僕がまだ“セレフ・ネアル”じゃなく、“ただの青年”だった頃……」


「……!」


「つまり、あの時。君は僕を助けるために、この護符の効力を逆に使って、自分の呪いを一部“引き受けた”んだ」


 リセルは思い出した。断片的に——雨の夜、泣いている少年。

 顔はぼやけている。それでも、彼女は彼を抱きしめてこう言っていた。


——私が代わってあげる。あなたの悲しみ、少しでいいから分けて。

それで少しでも軽くなるなら、私は……


「……そんなことしたの、私……」


「君が僕を救ってくれた。呪いがすべて君に降りかかる前に、何かが守ってくれた。それがその護符だった。——でも、その代わりに、君は自分の“名前”を失ったんだ」


 記憶ではなく、“名前”。

 それは、この世界において“存在の証”そのものだった。


 だからミーア・ベルドは消え、リセル・カルナが生まれた。

 呪いは形を変え、二人を繋いだまま、今まで続いていた。


「……じゃあ」


 リセルは静かに言った。


「私は“あなたを救うために名前を捨てた女”だったのね」


 


 セレフは、何も言えなかった。

 ただ、その手を伸ばして、リセルの手に触れようとした。


 だがその瞬間——護符がわずかに、黒く染まった。


「っ……!」


 リセルが倒れる。胸のあたりに、熱い痛み。


 セレフがそれを抱きとめ、叫んだ。


「やっぱり……まだ“呪い”は生きてる!」


 護符の魔力が限界に達していた。

 今度こそ、代償は支払われようとしていた。


 


 だが、リセルは目を開け、息をついた。

 そして、かすかに笑った。


「ねえ、セレフ……なら、今度は“対等”で契約しましょう。私はもう、自分だけの命じゃない。あなたもそう。だから——」


「……?」


「名前を返して。“私のことを覚えていた、あなただけの名で呼んで”」


 セレフは、震える声でつぶやいた。


「……ミーア」


 その名を呼んだ瞬間、護符が砕け、静かに光が消えた。

 だがそれは、呪いの終焉ではなく——新しい“始まり”だった。


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