代償の書
王都の東、霊廟通りにひっそりと建つ古書館。
時の王が魔術を禁じる前——百年も前から残るこの施設は、今では人も寄りつかない。
セレフはリセルを連れて、そこへやってきた。
「ここに来たの、七年ぶりです」
「個人の趣味で来るには重すぎるわね」
「魔術師って、だいたいそういう生き物ですよ」
静かに笑うセレフの横顔は、今日も穏やかだった。だがリセルは、彼の指先が小さく震えていることに気づいていた。
何かを——思い出そうとしているのか、あるいは忘れたくて抗っているのか。
セレフは書架の奥にある封印扉を解き、重い本を一冊、取り出す。
その表紙にはこう記されていた。
《契約魔術理論書・最終稿》
代償をもって、術を完遂せよ。
術者の影に触れし者、等しく代価を支払うこと。
「これが僕の“呪い”の正体です。——“契約魔術”」
「魔術、ってことは……呪いじゃなくて、自分でかけた?」
「はい。ただ、正確には“発動条件を間違えた”んです」
七年前、セレフは重病の母を救うため、正規の術師の許可なく古代魔術の研究に手を出した。
“命の代償”と引き換えに、対象を癒す契約魔術。だが彼は、ある項目を読み落とした。
“代償は、術者が最も愛するものに移される”
「つまり……私が母を助けた瞬間、母ではなく、“愛していた相手”の命が代わりに削られたんです」
「それって……!」
「そのとき付き合っていた女性が、半年後に病死しました。死因は原因不明。次に僕と関係を持った人も、事故で亡くなりました。三人目は……消息不明です」
リセルは、口を閉ざした。
背筋を冷たいものが走る。それは恐怖ではなく——奇妙な既視感だった。
「セレフ。……“愛していた相手”って、本人は自覚してたの?」
「たぶん、していません。僕も……気づかないふりをしていました」
「じゃあ、三人目も?」
「……僕が一番、愛した人かもしれません。でも、彼女とは何もなかった。ただ、助けて、笑って、それで……消えました」
その言葉に、リセルの胸が妙にざわついた。
なぜだろう。彼の語る“誰か”に、自分の過去がうっすら重なった。
「名前……覚えてる?」
「……ミーア。ミーア・ベルド。辺境の村にいた女性です。記録も、何も残っていません」
リセルは、その名を心の奥で何度も反芻した。
どこかで聞いた。いや、それより——どこかで呼んだ、気がする。
セレフは書を閉じ、静かに告げた。
「この契約魔術は、解除方法が一つだけあります。“術者が自らを完全に否定する”ことです。つまり、過去の記憶と人格を捨て、新たな契約を結ぶ」
「記憶を……失うってこと?」
「はい。そして新しい名前、新しい契約の相手を“代償なし”で選び直す。その一人に対してだけ、呪いは起きない。……ただし、それ以外には再び効力が及びます」
静寂が落ちた。
「……じゃあさ。もし私が、その“新しい契約相手”になったら?」
「……リセル」
「別に、結婚するって意味じゃないわよ。……でも、それが“呪いを終わらせる”唯一の方法なら、やってみる価値はあるんじゃない?」
セレフは、ただ黙って彼女を見つめていた。
その目は、迷いも感謝も、そして言い表せない後悔も含んでいた。
「あなたは、そんな重荷を背負うべきじゃない」
「私はもう、自分の影を持ってる。今さらひとつやふたつ増えたって、そう変わらないわよ」
その言葉に、セレフの唇がかすかに震えた。
「……ありがとう。まだ、決めきれませんが——その時が来たら、頼ってもいいですか?」
「うん。……その代わり、私のこともちゃんと“調べて”よ。私も、自分の影を終わらせたい」
ふたりは古書館を後にした。
夜の王都は静まり返り、誰もいない道に二つの影が並んでいた。
やがてその影は、ゆっくりと重なり、ひとつの形を成していく——それが呪いか、救いかは、まだ分からなかった。
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