呪われし月の下で
王都の外れ、古い建物を改装した茶屋《月影亭》。
夜風が暖簾を揺らし、鈴の音がかすかに鳴る。
リセルは一歩、扉の前で立ち止まった。
「今から引き返しても、誰も責めやしないんだろうけど……」
だが足は動いた。見合いなんて興味ないはずなのに、どうしても会ってみたくなった。
噂が怖いのではなかった。怖かったのは、自分が「信じてみたくなる」ことのほうだった。
店の奥、個室の障子を開けると、彼はいた。
「……初めまして。セレフ・ラヴィナスです」
リセルの想像していた“呪われた男”とは違った。
彼は背筋を伸ばし、整った服に品があり、目元には柔らかい光がある。だがその奥に、深い深い——湖の底のような静けさがあった。
「リセル・カーヴェルです」
自分の名を名乗る声が、少しだけ掠れていた。落ち着け、と内心で呟きながら、座布団に腰を下ろす。
そして、最初に出た言葉は、やや突飛なものだった。
「意外に……ちゃんと生きてるのね」
「え?」
「あんたが死なずに見合いに出てくるって、思ってなかった。呪いで溶けて消えてるかと思った」
セレフは目を丸くして——次に、ふっと笑った。
「冗談は言える人なんですね。安心しました」
リセルは、しまった、と舌打ちを飲み込んだ。こういう相手ほど、ぶっきらぼうな口調が浮いて見える。
だがセレフは、まるで気にした様子もなく、お茶を差し出す。
「リセルさんの剣術の話、少しだけ伺いました。前線で活躍されたとか」
「活躍っていうより、生き残っただけ。向こうは“死ななかった奴”を英雄って呼ぶ」
「……それでも、尊いことですよ。僕にはできませんから」
声に、偽りはなかった。上辺だけの賞賛とは違う、誠実さがあった。
リセルの中で、ひとつの違和感が膨らんでいた。
(……この人、ほんとに“呪われてる”の?)
だが、次の瞬間。セレフが口を開いた。
「リセルさん。……申し訳ありませんが、この見合いは、僕の方から断るつもりでした」
「……え?」
「僕は結婚してはいけない人間なんです。あなたがどれほど素晴らしい方でも、誰であっても、関わるべきではない。……それを伝えに来ました」
リセルは椅子の背に身を預け、腕を組んだ。
「呪いの話って、ほんとなの?」
セレフは少し目を伏せた。影がひとつ、顔に落ちる。
「はい。僕と深く関わった三人の女性が、皆……不幸な末路を辿りました。偶然とは思えない。僕は何かに呪われている。あるいは、誰かに呪われているのかもしれません」
彼はそこで言葉を切り、まっすぐにリセルを見つめた。
「——あなたまで巻き込みたくない。だから、本当にすみません」
沈黙が落ちた。だがリセルは立ち上がらなかった。
茶の香りがかすかに漂う中で、彼女はひとつ深いため息をつき、口を開いた。
「言いに来たってことは、ちゃんと向き合いたいって思ってたんじゃないの?」
「……」
「会って話すのが、どれだけ怖かった? それでもここに来てくれたってだけで、あんたが逃げてばっかりの人じゃないってことは分かる」
そして、にやりと笑った。
「そういうの、嫌いじゃないわよ。……あんたが“呪われてる”ってんなら、ちょうどいい」
「ちょうどいい、ですか?」
「私も似たようなもんよ。たぶん、結婚には向いてない。昔、取り返しのつかないこと、しちゃったしね」
それはまだ語る時ではなかった。けれど——
「だからさ。話くらい、最後まで付き合っていきなさいよ。こっちから断るまでは、逃がさないわよ?」
セレフの顔が、一瞬驚いたように緩んだ。
そして、初めて心の底から笑った気がした。
「……はい。分かりました」
その夜。
月は穏やかに照っていた。二人の影を、誰にも見えない契約の形に縁取るように。
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