Crane
息も絶え絶えに、私は必死に走っている。
それに気がついた時、私はまた思うのだ。
ーーああ、またあの夢か…と。
「ゆめ、ゆめ…」
捕まった私は刺殺され、相手の悲痛そうな声が名前を呼ぶ。頬に落ちてきた涙で、彼女が泣いていることが分かった。
これは夢。だから痛みはない。けれども、凍えそうなほどの恐怖だけは、しっかりと私の胸に刻まれていた。
「…ん、!…ゆめちゃ、ゆめ…ちゃんっ!」
名を呼ぶ声色が変わる。
思わずカッと目を開くと、視界いっぱいにみことの綺麗な顔が見えた。
彼女は眉尻を下げ、心配そうな表情でゆめの顔を覗き込んでいる。
「ゆめちゃん…よかった…」
安堵の息を吐いたみことは、ずるずるとベッドの隣に腰を下ろす。
視界に入ってきたのは自分の部屋の天井とカーテン、それから登校する時刻を指し示す置時計だった。
「もしかして、みこと。迎えに来てくれた!?」
勢いよくベッドから起き上がると、みことは腰を上げて首を縦に振った。
「うん。もう学校に行く時間なのに、ゆめちゃん家から出てこなかったから…。部屋に入ったら物凄く魘されてたし、起こしても起きないし…すごく心配したんだよ」
「…ごめん、ありがとね。みこと」
抱きついてきたみことを受け止めて、彼女の頭を撫でる。暫くそうしていると段々と落ち着いてきたようで、みことは再度ゆめの顔を覗き込んだ。
「悪い夢でも見てたの?」
「あー…うん、そんなところ。でも大丈夫だよ。心配しないで。それより、今から準備しても遅刻しちゃうよねえ…」
ゆめの返答にみことは不満げな表情をする。けれどもそれ以上詮索することはなく、話題を変えたゆめに便乗した。
「この際遅刻は仕方ないよ。それよりも、きちんと朝ごはんを食べて、しっかり身支度を整えよう?」
「うーん、そうだね。あ、でもみことは私に付き合わなくてもいいからね?生徒会長が私のせいで遅刻するのはなんか悪いし…」
「そんなことないけど…」
「あるの!だから、みことは先に学校に行ってて。そんでもって、先生に私の遅刻のことうま~く言っといて?」
両手を合わせてお願いポーズを作ると、みことは「仕方ないなあ…」と困ったように笑った。
「分かったよ。二度寝しちゃダメだからね?」
「はーい」
「返事が軽いよ、ゆめちゃん」
みことは最後に手櫛でゆめの髪を整えて部屋を後にした。
カーテンを開けると、丁度家から出てきたみことと窓越しに視線が合う。彼女は柔らかく笑ってゆめに手を振った。
早朝だというのにみことの清廉さには陰りがない。髪ははねていないし、隈もないし、唇は潤っている。どんなに完璧な人間でも早朝という時間には苦しみを覚えそうなものだが、みことにはそれが一切ないのだ。
ゆめはみことに手を振り返しながら、鏡で自分の顔を見つめる。髪ははねているし、隈はあるし、唇はかさかさだ。
ゆめは溜息をつきながら、タオルと洗顔を手に洗面台に向かった。
*
ゆめとみことの通う高校は共学である。
有名な学校というわけではなく、知名度は平々凡々。けれども、夜桜みことの存在で我が校の知名度はだいぶ上がっているらしい。
才色兼備であるみことは容姿や成績はもちろん、人柄や才能だって素晴らしく優秀だった。平和主義で穏やかな性格だが、困っている人間は放っておけず、正義のためには時に苛烈になることもある。彼女に救われた人間はみんな彼女を好きになったし、救われていない人間だって彼女に好感を持っている。書道をすれば賞を取り、歌を歌えば賞を取り、彼女が助っ人として参加したスポーツチームは毎度優勝を飾った。そんな彼女は教師たちからの信頼も厚く、一年前から生徒会長を務めている。
幼馴染の贔屓目なしに、彼女は“特別”なのだ。
そんな特別な彼女の隣にいる、自分。
ゆめは心中で溜息をはいた。
みことに比べて何の取り柄もなく、誰の興味も引かない。加えて、最近夢見が悪く、今朝は彼女に心配までかけてしまった。何の取り柄もない。けれどもせめて、心配はかけないようにしなくては。特別な彼女が、特別に思ってくれているのだからーー。
「いい加減にしろと言っているだろうが!」
「っ、!」
校門から入り下駄箱に着いたところで、ゆめの耳に教師の怒鳴り声が聞こえてきた。
こっそりと様子を窺うと、そこには顔を真っ赤にした教師と、飄々としたスカジャンの生徒が見える。
その生徒の顔は見えないが、深紅のような真っ赤な髪に折り鶴の印刷されたスカジャンを着ている。その姿で彼女が誰であるかは瞬時に判別できた。
「さっきからどうでも良さそうな顔をして!話を聞いているのか!」
「聞いている。もういいか?」
「いいわけあるか!」
先日。プールで話をした合葉つきの友人ーー都留田とわこである。
彼女が教師に怒鳴られているのを見るのは初めてではない。なぜなら彼女は喧嘩常習犯。詳しい経緯は知らないが、他生徒に暴力を振るうことで有名だ。正直、彼女はそこまで悪人には見えないのだけれどーー。
それにしても困った。
説教は当分終わりそうにない。ただでさえ遅刻をしているのに、説教が終わるのを待っている時間はない。横を素通りしようにも、遅刻している自分をやすやすと見逃すわけがないだろう。
ゆめは、ぐぬぬ…と唸る。
すると、とわこが横目で自分を見ていることに気がついた。
「あ、」
教師に気づかれないように、後ろ手でジェスチャーのようなものをしている。
目を細めてその意味を解読していると、おそらくだが、中庭に回れと言ってくれているようだ。
ーー中庭。
存在は知っていたが、ゆめは一度も足を踏み入れたことがない場所だった。確かに、立地的には校舎の裏に回り中庭を通れば、下駄箱を通らず教室まで行くことができる。
ゆめは目が合ったとわこに頭を下げると、回れ右をして校舎裏に向かった。
「…やっぱり、悪い人には見えないなあ」