騎士
私は海の中にいた。
不思議と息苦しくはなくて、目もしっかりと開いていて、悠々と泳ぐ魚たちを見ていた。
ふと、目の前に絢爛豪華な宮殿が現れる。
そして私を背に乗せた亀が「到着しました」と得意げに微笑んだ。
唐突な既視感。
眼前の宮殿と大きな亀を交互に見ながら、私はこれが夢だと理解した。
いつも見る恐ろしい夢ではなく、以前見た『わらしべ長者』のような、昔話の夢。
恐ろしい夢を見るよりも何倍もマシだが、これはこれで奇妙である。
すると、訝し気な顔をしている私に気づいたのか亀がこちらを見上げた。その亀の瞳は星空のような美しい色をしていて、私はまた既視感を感じる。
亀はゆっくりと瞳を瞬かせると「…ああ、」と心配そうに微笑んだ。
「お目覚めの時間なのですね。ええ、仕方なきこと。しかし、どうか忘れないでください」
ーー忘れてしまえば、あなたを守る一助にはなれません。
亀は最後にそう呟くと、水の泡になって消えてしまった。
気づけば、眼前の宮殿も周りの海水も泡となり、それらは私の背を押して海上へと導いた。
身体が海上に近づくにつれて、意識もゆっくりと浮上する。
私の耳に誰かの声が聞こえた。
「こいつ、大丈夫なのか」
「ええ、命に別状はありません。…本当に良かった。けれど、なぜ私を庇ってくれたのでしょうか…」
「単純にお人よしの善人なんじゃないのか。夜桜みことにも妙に流されている節があるしな」
「………。あれは、流されているというより…」
話し声が二人分聞こえる。
しかし、薄らと目を開けると、ゆめの視界に映ったのはつきの姿だけだった。
「!霧花さん」
「あい、ば…さん」
「ええ、合葉つきです。…良かった。目覚めてくれて安心しました」
眉尻を下げながら、つきは柔らかい笑みを浮かべる。
ゆめはつきの笑顔に応えるように僅かに口角を上げると周囲を見渡した。
白い壁に白いカーテン、そして薬品の匂い。どうやら保健室のようだ。
つきはゆめの顔を覗き込むと、目にかかる前髪をそっと払った。
「…霧花さん。助けてくださってありがとうございました」
そう言いながら、つきは更に眉尻を下げた。
自分のためにゆめが怪我を負ってしまったのだ。申し訳ない、悔しい、悲しい、そんな思いがつきの胸中を占めた。しかし、ゆめはそんなつきの心情を察したのか、努めて快活に笑った。
「そんな、謝らないで。私が勝手にやったことだし。合葉さんは怪我してない?」
「ええ、怪我ひとつありません」
「良かった」
明るく笑うゆめに、つきも少しだけ悲愴な表情を緩める。
「ところで、足が動かないんだけど、私もしかして…」
「…骨折しています」
「やっぱり?て、あっ!右手も動かない!」
「…すみません」
「いやいやいや!ごめん!今のは私が悪い!合葉さんのせいじゃないから、ほんと!」
そう。悪いのはつきを突き落とそうとした女子生徒である。
ゆめは該当の生徒の顔を思い出しながら、目尻を吊り上げた。
「…あ、そういえば。合葉さん、さっき誰かと一緒にいた?」
「いえ、保健室には私一人でしたよ」
「…そう?」
ならば、先ほどの会話は夢現の幻聴だろうか。
口調と声質から、とわこと会話をしていると思ったのだけれど。
(…まあ、そんなことあり得ない、か。だって都留田さん、今日はお休みだし)
仮に、とわこが学校に来ていたらつきが階段から突き落とされるなんて悲劇、起きていないだろう。
そう思うと、都留田とわこという存在はまるでーー。
「ナイトみたい…」
「え?何がですか?」
「え!?あっ、ほら!都留田さんって、喧嘩強いし、カッコいいし、まるでナイトーー騎士みたいだなって…!」
口から出ていたとは、なんて恥ずかしい。
羞恥で顔を赤くしながら首を振ると、つきは軽く頷きながら「なるほど」と呟いた。
「霧花さんの目から見て、とわこはそういう風に映っているんですね」
「う、うん…ソウデスネ…」
「でも、それならーー…、
今日、私を守ってくれた霧花さんもナイトみたいでしたよ」
目を細めて、とても柔らかく、つきは笑った。
窓から入ってきた風が彼女の髪を揺らし、夕焼け色の光が頬を染める。
そのあまりにも優しい笑みに、ゆめは見惚れてしまった。
「ゆめりん!!」
その時。勢いよく保健室の扉が開いた。同時に、忙しない友人の声。
そちらに顔を向けると、涙目のまりんが扉のすぐ隣に立っているのが見えた。彼女は暫しきょろきょろと瞳を動かしていたが、ベッドに横になるゆめを視界に入れると感極まったように駆け出してきた。
「ゆめりん~!よかったあああああ」
「まりんさん、霧花さんが眠っていたらどうするのですか。もう少し静かに入ってきませんと」
「うんうん!ごめん!ほんとに良かったよおおおおお!」
ゆめの元までスライディングしてきたまりんは、泣きながらベッドにしがみつく。つきは呆れた顔をしながらも、そんなまりんの頭を優しく撫でた。ゆめもつきに倣ってまりんの頭を撫でる。脱色しているというのに、まりんの髪は柔らかく綺麗だった。
「心配してくれてありがとう、まりん」
「そんなの当たり前だよ~!って、あれ?ゆめりん、少し顔赤くない?」
「え、大丈夫ですか、霧花さん!」
「だ、大丈夫!元気!あの、ところで…みことは?」
ゆめの質問に、まりんは「ああ、」と曖昧な表情を浮かべる。
この世の終わりーー最後に見たみことはそんな顔をしていた。だからこそ、自分はちゃんと生きていると、元気だと伝えたい。
まりんの曖昧な返答に首を傾げると、つきが訥々と「夜桜さんなら…」と口を開いた。
「霧花さんを保健室に運んだあと、やるべきことがあると言って出ていかれました。どこに行ってしまったのかはわかりません」
「そうそう。つっきーにゆめりんの様子を見るように言ってさ。全く、何様って感じ~」
「そんな言い方いけませんよ、まりんさん」
「だってさ~、言い方ってものがあるじゃん」
唇を尖らせたまりんに、つきは困ったような笑みを浮かべる。
…みことはゆめのことを大切に思ってくれている。ゆめはそう思っているし、それはまごうことなき事実だ。しかし、それならばなぜみことはここにいないのだろう。
ゆめはそのことを寂しく思いながら、つきとまりんに向けてそっと微笑んだ。