悪夢
暗闇の中を必死に駆ける。
ーー逃げなければ。
どこに向かっているのか、何から逃げているのかは分からない。けれども、私の脳裏にはただその言葉だけが浮かんでいた。
曲がり角で身体をぶつけ、石に躓き派手に転ぶ。疲労も痛みも限界に達していたが、逃げることを止めるわけにはいかなかった。
血が滲む手足をそのままに、私は再び足を動かす。
視界が悪いためか、自らの息遣いや、汗が流れる感覚がひどく鮮明だった。
「ゆめ…ゆめ………」
「っ…!」
反響するようななまめかしい声が耳に届く。
その瞬間、まるで心臓を掴まれたような恐怖が身体を駆け巡った。
ーー逃げなければ。
再び、その言葉が脳裏に響く。
汗が急激に冷え、手足が小刻みに震えた。
ーー逃げなければ。逃げないと。逃げるんだ!早く!早く!早く!
脳内で激しい警報が鳴った。
震える足を動かし、一歩、また一歩と歩を進める。
けれどもあっけなく、私は誰かに肩を掴まれた。
振り返る間もなく、私の身体を鋭利な刃物が貫く。
「……ゆめ、ゆめ……」
とても悲し気な、誰かの声。その声の主は私の名前を呼びながら、何度も何度も私に刃物を突き立てる。相手の顔は分からない。けれど、私を殺めながら泣いていることだけは分かった。
*
「最っ悪…」
教室の机に寝そべりながら、霧花ゆめは片手でスマートフォンを弄っていた。
検索しているのは“殺される夢 夢占い”。
今朝見た夢が嫌に鮮明で強烈で、彼女の機嫌は朝から急降下している。
「…殺される夢……はあ?悪い夢じゃない?うそでしょ?」
そんなわけないだろう、とゆめは心中で憤った。
ただの夢だと分かっているが、感じた恐怖も痛みも妙にリアルで、あれが吉兆の夢だなんて到底思えない。ゆめは眉尻を吊り上げると、怒りのままにスマホを鞄に放り投げた。
「ゆめちゃん、おはよう」
「あ、おはよう。今日も早いね、みこと」
「変なの。私よりゆめちゃんのほうが早く来てるじゃない」
目を細め柔らかく笑った少女ーー夜桜みこと。彼女はゆめの幼馴染であり、誰よりも大切な友人だ。
白磁のような肌に、おかっぱ前髪、腰までのストレートヘア。加えて、桜のような頬に、夜空を閉じ込めたような大きな瞳は誰から見ても美少女である。
みことの笑顔を真正面から受けて、ゆめはたまらず恍惚の溜息をついた。
「それで?私より早く学校に来てるゆめちゃん。何かあったの?」
「あー…たいしたことじゃないの。夢見が悪くてさ。二度寝するのが嫌だったから早く来ちゃった。それだけ」
「え、大丈夫なの?夢見が悪いって…ストレスとかかな…」
ゆめの言葉を受けて、みことは心配そうに眉尻を下げる。そんな表情も大変麗しいが、大切な幼馴染に心配をかけるわけにはいかない。ゆめは笑顔を浮かべて、首を横に振った。
「大丈夫!本当にたいしたことじゃないから」
「そう…?もし何かあったら相談してね。私はいつでもゆめちゃんの味方だよ」
みことの細い指がゆめの手の甲を撫でる。
そんな彼女に応えるようにゆめはみことの手を握った。
まるで恋人同士のような、そんな距離感。
それがゆめとみことのいつも通りだった。