1話 フィーネの憂鬱
テーブルからドサッと紙の束が落ちる音がしてフィーネは目が覚めた。
床に散らばった釣り書き書に大きくため息を漏らすと、王宮官吏職員に支給された制服に袖を通す。洗顔をしドレッサーの前に座るとベルを鳴らした。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、いつものお願い」
「はい」
薄い化粧に髪は邪魔にならないよう軽くまとめてバレッタで止める。
「はぁ、もったいない。もっと美しく着飾れますのに…」
仕事に行くのに着飾る必要などないだろうと思いながら無言のまま鏡を見ていた。
地味なダークブラウンの髪にどこにでもある赤茶色の目。着飾ったところで壁の花になるのが目に見えている。
両親はというと地方の自領におり、フィーネは王都内の小さなタウンハウスに最低限の侍女を連れ王宮で働きながら暮らしている。
今年で24歳。行き遅れの娘に結婚をと両親、というより母が焦っていた。
ー 余計なお世話なのよ、ほんと
朝から苛立つ気持ちを抑えながら私は王宮に向かった。
♢
執務室に入るや今日も山と積まれた書簡が目に入りフィーネは小さな嘆息をもらした。
ー いけない、いけない。朝からこれでため息が2度目よ
すでに書簡を振り分けているガードナーに挨拶をする。
「おはようございます、室長」
「ああ、おはよう。早速だけど手伝ってくれるかな」
「もちろんです」
すぐさま鞄をデスク横のフックにかけると、先ほどの書簡を一枚ずつ手に取りすばやく振り分けていく。
ー カンタール語はイリスに任せて、ポリタレス語はマリエッタ、スパイン語もマリエッタはできたわね。それから…
書簡に書かれた文字を見ながらどこの国から来たものなのかすぐに判別するのは難しい。大国で広く使われている言語ならともかく、小国の文字となるとなおさらだ。
フィーネがそれをなんなくやってのけるのは、ひとえに彼女の才覚と努力によるものである。
「おはようございます。室長、フィーネ」
ドアを開けると同時に挨拶したのは同僚のイリスだ。
イリスとは王立学園時代の同級生でもある。
いつもワックスできちんと固めた銀髪がテカテカと光っている。
「おはよう、イリス」
「おはよう、イリス君も手伝ってくれるかな」
「はい。ところでマリエッタさんはまだですか」
「彼女はいつもギリギリでしょ。それに就業時間前に来れば問題ないわ」
「そうだけど一応機密事項を扱う王宮官吏職だし、いつものように走って来るのもどうかと思うだよね…」
ここは王宮内の一角にある外務省管轄区域のうち、主に南アンザール地方との外交を扱う部署でフィーネたち第三執務室ではそこで取り扱われる外交関連文書の翻訳および政策案の提出を主としている。
外交上の機密事項も扱うため口が堅く、且つ間違いの許されない仕事であるためここで働く者はほとんどが首席に近い成績で王立学園を卒業していた。
しかしながら南アンザール地方には小国も多く、その国の文字や言葉を扱える者は少ない。
よって第3執務室は現状フィーネとイリス、マリエッタの3人に第3執務室の室長を務めるガードナーの4人でまわしていた。
イリスも加わり3人で書簡の振り分け作業をしていると、就業時間開始の鐘の音とともに勢いよくドアが開いた。
栗毛の髪の毛が走ったせいかまとまりをなくしてもわっとしている。
「今日もギリギリですみません!すぐに取り掛かります!」
息を切らしたマリエッタが鞄を自分のデスクにドカッと置くとイリスの横に並んだ。
「いつもいつもギリギリだけど、もうちょっと余裕をもって来るとかしたらどうですか」
今年入ったばかりの新人にイリスが冷ややかな視線を送る。
「イリスったらマリエッタさんはまだこの仕事を始めて1年も経ってないんだから、心身への負担も大きいのよ。長い目で見てあげなくちゃ」
「すみません、朝が弱くて…」
「いいのよ、別に、ね」
昨年までいたリリアーナが結婚で退職し、その代わりとして入って来たのがマリエッタである。
マリエッタができる仕事はまだまだだが、育てていけば戦力になるのは間違いない。ここで辞められては適切な人材を見つけるのは難しい。
辞められては困ると言わんばかりに私はイリスを睨んだ。
「おー怖っ」
「まぁ、ただイリス君の言う事も一理あるね。外務省管轄区域だからといって王宮内を走るのはよろしくないよ。そこはマリエッタさんも気を付けて」
「はい、室長」
少しシュンとなったマリエッタの横でイリスは勝ち誇った顔をしている。
同年代とは思えないイリスの態度に私はまた小さくため息が出た。
♢
一通り振り分け作業が終わるとそれぞれのデスクに振り分けられた書簡を運ぶ。フィーネは振り分けられた書簡に優先順位をつけながら早速翻訳に取りかかった。
執務室の壁一面には小国のあらゆる言語辞典が並んでおり、時折マリエッタが席を立ってそれを見ている。
「そろそろお昼休憩にしようか」
ガードナー室長の言葉に3人は顔をあげた。すでに午後2時をまわっていたが集中しすぎていて誰も気づかなかったようだ。
「ただ私はキリが悪いから3人で先に行っていて。これを終わらせたら後から行くよ」
「わかりました。じゃあ先に行ってますね」
フィーネが席を立つと続けて伸びをしながらイリスとマリエッタが立ち会がある。
「じゃ、お先に失礼します」とイリスが室長に軽く頭を下げ、マリエッタもそれに続いた。
そして3人は執務室を出ると王宮官吏職員専用の休憩室兼食堂へと向かった。
それから席を見つけると3人はすぐさまランチをオーダーする。
「はぁー、それにしてもリリアーナさんいなくなってから仕事量増えたなー」
椅子に座るなりイリスがため息交じりにはき出した。
「あ…」
マリエッタがその横で申し訳なさそうにうつむいた。
「ちょっとイリス、マリエッタさんが自分のせいだと思ってるじゃない」
「え、いや、そーゆー訳で言ったんじゃないんだけど」
「マリエッタさんも気にしなくていいからね。イリスって学園時代からこうなの。ちょっとというかあんまり気が回らないというか」
マリエッタが顔をあげて小さく笑ったので私は安堵すると同時にイリスをキッと睨む。
「おー怖っ!きっつ!そんなんじゃリリアーナさんみたいに結婚できないぞ」
イリスがハハッと笑ったところで私は大きなため息をついた。
するとそこに第二執務室のジルベールが私たちを見つけてテーブルに近づく。
「おっ、イリスにフィーネと…」
「あ、マリエッタです」
「マリエッタさんね。三人で何か盛り上がってるね。何の話?」
ジルベールも私やイリスと同じ王立学園からの同級生だ。
カトゥカ侯爵の長男で黒髪に黒縁眼鏡と真面目の塊のようないで立ちだ。
長い前髪と眼鏡のせいでせっかくの綺麗な青い目が台無しである。
「いや、ね、フィーネのそんな性格じゃ一生結婚出来ないぞって話」
「はは、なるほどね」
そう言うとジルベールはイリスの隣に座りランチを注文した。
彼は同級生の子爵令嬢だったロゼッタと王立学園時代から婚約していて、2年前に結婚している。
子どもはまだのようだがきっとそのうち出来るのだろう。
「別に!私、一生結婚できなくていいと思ってるから」
「え!」
これにはマリエッタが驚いたようで「え!」の声が大きい。
「フィーネさんは結婚したくないんですか?」
「そうよ。私は仕事が好きだし一生この仕事をしてたいと思ってるの。給料も高いし十分に生活していけるわ。それに養ってもらって夫の機嫌を取って、社交の場に出て笑顔振りまいて、その上跡継ぎを作るっていうのが重要任務みたいな貴族女性の生き方は絶対にしたくないわ」
「なるほど。でも、わたし、それ、分かる気がします!」
マリエッタがガタっと席を立ちあがりフィーネの手をぎゅっとつかむと、うんうんと大きく頷いた。
「ほんとに!」
初めて同じ意見を持った貴族女性に会って私の口はつい饒舌になってしまった。
「だいたい貴族社会が男中心なのが納得がいかないのよ。女はまるで飾り物みたいに着飾って夫を支えてって、その上すべての女の幸せは結婚にあるみたいに押し付けられるのも嫌だわ」
「わかります、わかります!わたしのお母様は貴族女性を絵に描いたような人なんですけど、それで毎日家に帰れば口論になってしまって、毎日イライラしてよく眠れなくて」
「そうだったのね。だから毎日…」
遅刻ギリギリなのね、とは言えなかった。
「私は自領が地方だから両親はそちらにいるけど、この仕事に就く時半ば家を飛び出すように出て来たわ。母はいつこの仕事を辞めるのか聞いて来る有様で…。どこの家もきっと一緒なのね。それで今では毎日のようにお見合いの釣書や絵姿が両親から送られてくるの」
「私もどこぞのご子息の絵姿をお母さまに見せられます!あれ、ホント嫌ですよね!」
「そうそう!身分と肩書さえあればいいと思ってるのよ、きっと」
意気投合した二人をよそにイリスとジルベールがバツの悪そうにモグモグと鶏の胸肉を咀嚼する。
王宮で働く者のほとんどが貴族であり、当然ながら彼等も領地を持つ貴族令息だ。
「そんなに嫌なら結婚できないようにすれば」
皿に添えてある人参をガリっと噛むとイリスは言った。
「え、そんな方法があるの?」
「まぁ、厳密に言えばできないじゃなくて、したくないと思わせるってことだけど。例えばすごい素行が悪いとか、金使いが荒いとか」
「悪女ってこと?でもそんなことしたら今度は仕事が続けられなくなるじゃない」
「あーじゃ、すでに経験済みとか」
「経験って?」
私がきょとんとするとイリスはやや勝ち誇った顔をした。
「そりゃ、アレに決まってるじゃないか。貴族の男は初めてにこだわるからな。すでに男を知ってる女は令嬢じゃないだろ。高位貴族なんかは特にその傾向が強いんじゃないか」
何となしに言ったイリスの言葉がこの後の私の人生を大きく変えることになるなんて、この時はまるで想像していなかったのだった。




