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9.変わったお医者様①

 ロイドの執務室を出る時にアリーチェが見せた表情が頭にちらついてしまう。

 彼女は補佐役として務めを果たしているだけで深い意味なんてないと、自分に言い聞かせながら廊下を歩いていく。


 これから医者に会うのに暗い顔ではいけないと気持ちを切り替える。



 私は半年前から定期的に診察を受けている。身籠らない私のために、義母が手配しているのだ。

 これはホグワル侯爵家に限ってのことではなく、普通のことだった。


 貴族にとって後継を残すのはなによりも大事なこと。子を産めない妻は離縁されても当然という風潮もある。



――それが貴族社会の常識。





 屋敷と外廊下で繋がっている温室まで来ると、磨りガラス越しに気づいた誰かが扉を開けるために動く姿が見えた。


 ホグワル侯爵家の温室は、全面に磨りガラスを使用しており、外からも内からも人の動きは把握できる。でも、声はしっかりと遮られるので、客人を招く場としても使われていた。



「若奥様、どうぞ」

「ありがとう、メルア。マール先生はだいぶお待ちになっているかしら?」

「いいえ、それほどでもありません。それに、先生はそんなこと気になさる方ではありませんから。あちらでお茶を飲んでのんびりと待っておりますよ」


 扉を開けてくれたのは侍女長のメルアだった。彼女はホグワル侯爵家に長く仕えており、侯爵夫妻からの信頼も厚く、私も頼りにしている。



 客人を部屋に案内しお茶を用意するのは侍女の仕事で、基本、その時に手が空いている者が行う。

 しかし、マール先生が訪問した際には、侍女長自らつく場合が多い。

 気難し方だからと気を遣っているのではなく、彼女が自ら望んでのことだった。


 医者――トウヤ・マールは、医師免許を持ちながら伯爵位も有している。これ自体は珍しいことではないけれど、彼は変わった医者だった。

 普通、貴族出身の医者は貴族しか診ない。高額な診察料を払うことが出来ない平民は患者になり得ないからだ。


 しかし、マールはどちらも診ていた。貴族からは正規の診察料を取り、平民からは『恩を売っておきましょう』と冗談を言って低料金しか取らないそうだ。


 平民であるメルアの孫娘も、彼の善意によって救われた一人だった。


『先生がいなかったら、私は今ここで笑ってなどいられませんでした。お若いのに立派な方です』


 メルアは涙ながらに彼がどんなに素晴らしい医者か私に教えてくれた。



 そんな彼がホグワル侯爵家のかかりつけ医になったのは、ほんの半年前のこと。

 夜会で体調を崩した義父を、その場に偶然居合わせた彼が診てくれた。その手際の良さに感動した義父は、かかりつけ医になって欲しいと頼んだ。


 彼は若輩者ですからと丁重に辞退したそうだが、義父の強引さに根負けし引き受けたと聞いている。

 


 メルアの恩人が、義父の恩人になるなんて意外と世間は狭いものだ。




「メルアの美味しいお茶を飲んでいたら、時間なんて忘れてしまうわね」


私がそう言うと、彼女は目を細める。


彼女が淹れたお茶を飲んだ人は必ず同じ台詞を口にする――『どこの茶葉を使っているのかしら?』と。それくらい上手なのだ。


「本当に、若奥様は喜ばせるのがお上手です」

「お世辞ではないわよ。我が家のお茶会に参加する人はみんな、あなたのお茶を楽しみにしているもの」

「若奥様ったら、そんなに私を舞い上がらせてよろしいのですか? 飛んでいってしまいますよ」


 メルアは羽のように手を動かしながら、目尻の皺を更に深めた。



 私は色とりどりの植物の中を真っ直ぐに進んでいく。侯爵家自慢の温室は広く、小さな箱庭のようだ。

 中央に配置された長椅子に腰掛けていたマールは、私が来たことに気づく礼儀正しく立ち上がる。


 彼は黒目黒髪で眼鏡を掛けており、若いけれど落ち着いた雰囲気を持ってる。



「マール先生、大変お待たせしました」

「私が早く着いただけですから。こちらこそ、予定を狂わせてしまって申し訳ありません」

「どうぞ、お座りになってくださいませ」


 彼が腰を下ろすと、私も彼の向かいの椅子に座る。二人とも慣れたもので緊張感はない。


「レティシア様、最近はいかがですか?」

「食欲もありますし眠れておりますわ。特に変わったこともありません」

「それは良かったです。人間は"もりもり食べてぐっすり寝る”のが基本ですから。では、今日の診察は終了です」


 彼は巫山戯ているのではなく、至って真面目にそう告げる。



 半年前、私とロイドは彼の診察を初めて受けた。結果は二人とも問題なし。

 でも、私だけが定期的に診察を受け続けている。それは子をなすこと=女性側の責任だからだ。


 私も当然そう思っていた。けれども、二回目の診察時にマールは意外な言葉を口にした。


『子供は二人でなすものなのに、こうして女性側ばかりに心身ともに負担を掛けるなんて変ですよね?』

『……負担ですか?』

『ええ、そうです。こんなに頻繁に診察を重ねても意味はありません。死病に罹っている患者じゃないのですから。子は天からの授かりものですので”ゆっくりと待つ”――これがあなたがやるべきことです。レティシア様』

『……それだけでいいのですか?』

『はい、それがなによりも大切なことです』


 首を傾げる私に、彼は自信満々にそう告げたのだった。



 それからは、彼の診察はたった一文で終わるようになった。その後は薬を処方するという名のお喋りを楽しむ。

 リラックスすることがなによりの薬になるというのが、彼の持論だった。


 同じような境遇にある若い夫人達から、高額な薬草茶を処方されたとか、子が授かる石を医者から買ったとか、そんな話を聞くことがよくあった。


 でも、彼はそんなことを勧めたことは一度もない。


 本当にこのままでいいのかしら……?

 

 怪しげな茶や石の効果を信じたわけでない。けれども、一抹の不安を覚えた私は一度、彼に尋ねたことがあった。


『マール先生、おすすめのお茶などはありますか?』

『特にはありません。私は飲めれば良いと思っていますので、茶葉にこだわりがないんです』


彼は見当違いな返事をした。


『では、石とかは――』

『私はただの医者ですから、墓石のことはさっぱり分かりません。死ぬ前が専門ですので。お力になれなず申し訳ございません、レティシア様』

『お気になさらないでくださいませ』


 そもそも、墓石のことは聞いていませんし……。



『次回までに調べて来ますのでお待ち下さい』

『いいえ、本当に大丈夫ですので。変なことをお聞きして申し訳ございません!』


なんでこんな話に? と慌てる私。一抹の不安などいつの間にか消えてしまっていた。



 ――彼はとても変わった名医だった。



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