8.手の届かない人②(アリーチェ視点)
書類から目を離したロイドは、部屋の中を見回していた。
「レティはどこだ?」
「若奥様は先ほどの退出されました」
侍女が返事をすると、彼は顔を顰めて『黙って出ていくなんて……』と呟く。
「レティシア様はちゃんとお声を掛けていらっしゃいましたよ。ロイド様は気づかなかったようですが」
彼は頭を掻きながらしまったという顔をする。
「代わりに謝っておきましたわ」
私はくすっと笑いながらそう告げる。
彼の子供っぽい仕草に反応したのではなく、部屋を出ていく時のレティシアの表情を思い出したのだ。
彼女は悔しくて仕方がないのだろう。自分がいるはずの場所を私に奪われたから。
彼女の気持ちは痛いほど分かる。
昔、私も辛かった。彼の隣にいるレティシアを見る度に同じように思っていたのだ。
でも、私と彼女では大きく違うことがある。
私は優秀な補佐役という正当な理由で彼の隣りにいる――私自身が認められた結果。
彼女はその身分のみで、彼女自身に価値はない。
彼に必要とされているのは私だ。
「ありがとう、アリーチェ」
「礼など不要ですわ、ロイド様。これも補佐役の務めですから」
彼は私のことをアリーチェと呼び捨てるようになった。理由は私が使用人だからだけど、そんなの関係ない。……もっと呼んで欲しい。
私は彼と一緒に侍女が淹れ直してくれたお茶をいただく。
休憩の間も話すことは仕事のことで、甘い雰囲気になることはない。残念だと思うこともあるけれど、私はきびきびと彼の期待に応える。
今、彼の瞳に映っているのは私だけ。その事実がなによりも嬉しくて堪らないのだ。
話に夢中になっているふりをして、少しだけ身を乗り出し体を彼のそばに寄せる。不適切にならない距離。私はドキドキしながら彼の反応を見る。彼は気にすることなく、そのまま話し続ける。
不快に思っていない証……よね? そうよ、そうに決まっているわ。
嫌だと感じたらさり気なく身を離すものだ。
トントンッと扉を叩く音がしたので、侍女が扉を開ける前に私はさり気なく元の位置に戻る。
「レティシアは仕事を手伝っていないのね……」
侯爵夫人は部屋に入るなり溜め息を吐く。
彼女はあの夜会で、息子であるロイドを責めレティシアを庇った。でも、内心ではそう思っていないと思う。こうして言葉の端々に苛立ちを匂わせているのだから。
侯爵夫人が椅子に腰を掛けると、ロイドは侍女にお茶を淹れるように命じた。しかし、侍女はもうお茶を淹れ始めていた。侯爵夫人は仕事が遅い者に厳しいからだ。もし無駄になったとしても、叱られるよりは良いと思ったのだろう。
侯爵夫人は正しい。使用人には厳しくあるべきだ。
「レティは先ほど来てくれましたが、医者が来たのでそちらに――」
「まあ、いいわ。そのために補佐役を雇ったのだから。あなたが優秀で本当に助かっているわ、アリーチェ」
「いいえ、奥様。ロイド様が優秀だからですわ」
私が謙遜すると、侯爵夫人は私に微笑んでくれる。
……そう、出しゃばり過ぎるのは良くない。
彼女はたぶんレティシアを好きではない。表立ってそういう発言はしないけれど、性格的に合わないのだと思う。努力では埋められないところで、厭われるなんて可哀そうにと心の中で嘲笑う。
その一方で、私は気に入られている。考えかたも優秀さも自分に通じるものがあると、侯爵夫人は思っているのだろう。私も同意見だ。
もし私が高位貴族の生まれだったなら、彼女のように気高い夫人になっていた。
「そうだわ。領地の視察のことだけど、レティシアの代わりに補佐役を連れていきなさい。そのつもりでね、アリーチェ」
「はい、奥様」
「父上は了承したのですか?」
ロイドは訝しげに尋ねる。
領地の視察はロイドが定期的に行っており、その時は必ずレティシアを伴っていた。次期侯爵とその妻の存在を領民に知らしめるために。だから、今までは二人にとって優先事項だったはずだ。
なぜという疑問が浮かぶが、ここで私が聞くのは差し出がましいので控えた。
「今夜夕食の席で伝えるつもりよ。レティシアにもね」
「レティも知らないということは、彼女の希望ではないのですね? 母上」
「ええ、そうよ。最近お茶会の予定が立て続けに入っているから、あの子の負担を軽くするために配慮したの」
ロイドはそれ以上なにも言わなかった。
当主であるホグワル侯爵に判断を委ねようと思っているのだ。
たぶん、侯爵は"夫人の配慮”を了承しないだろう。今だって補佐役をつけて楽をさせているのだ、これ以上甘えを許すとは思えない。
私は侯爵と直接話したことはない。でも、夫人同様厳しい人だと聞いている。
「はぁ……。アリーチェのように優秀な人がホグワル侯爵家に嫁いできていたら、こんな配慮は必要なかったわね」
「母上、いくら何でも言葉が過ぎます!」
ロイドは常識的な反応をみせる。侍女や私がいる場で本音は漏らさないだろうから。
「もちろん、冗談よ。ね、アリーチェ」
侯爵夫人は私の言葉を待っている。
彼女はこんなふうに人を試すところがある。彼女が求めるものを瞬時に返せるかどうかで、その人間の価値を判断するのだ。
彼女は二人だけの時は"メイベル様"呼びを私に許している。つまり、友人として認めてくださっているのだ。
でも、今の私はただの使用人。だから、間違っても冗談に乗ってはいけない。
私は手にしていたカップを置き、両手を前で重ねて姿勢を正す。
「私のようなものが、侯爵家に嫁ぐなんて天地がひっくり返ってもあり得ません」
「本当に惜しいわね。あなたに身分さえあれば完璧だったのに」
「買い被りすぎです、奥様」
……私もそう思っております、メイベル様。
己の言葉を私は心の中で即座に否定する。そんなことを知らない彼女は満足げだ。
ロイドのほうに目をやると、私と彼の視線が交わる。私をずっと見つめていた? きっと、そうだわ。
本当に口惜しい。
私に足りないのは身分だけ。もしそれがあれば、侯爵夫人としての未来があったかもしれない。いいえ、“かも"じゃなくて、そうだった。
大切にされるだけのレティシアと違って、私はロイドに愛されていたことだろう。
身の程を弁えて行動しようと思っている。
でも、もし彼のほうが私を望んでくれたら……。
――秘密を抱える準備は出来ている。