7.手の届かない人①(アリーチェ視点)
ロイドの執務室は侯爵家に相応しい高級なもので溢れかえっている。男爵令嬢である私は初めて触れるようなものばかりで、壊したら到底弁償できる額ではないだろう。そう思うと気が休まることはない。でも、この空間にずっと居たいと思っている。
彼のそばにいられるのだから……。
私は隣で書類を読んでいる愛しい人の横顔を見つめる。彼は私の眼差しに気づきもしない。それでも構わない。
だって、彼は先ほど出ていった妻にも気づかなかったのだから。
どちらが哀れかなんて比べるまでもない。
……お可哀そうに、レティシア様。
唇から漏れ出そうになる笑い声を、私は必死に押し殺す。
彼女はその身分だけでロイドの妻の座をやすやすと手に入れた。
学業に秀でていた訳でもなく、容姿が優れていた訳でもなく、特別な才があった訳でもない。学園内での評判は良かったようだけど、それは侯爵令嬢へのお世辞が含まれていたからだろう。
レティシアが持っていたのは、侯爵家に生まれ落ちたという幸運のみ。
しかし、貴族社会ではその幸運――本人の努力では覆せないもの――がなによりも重んじられる。
……とても理不尽だ。
私は学園で恋に落ちた。相手は侯爵家の後継ぎであるロイド・ホグワル。
――男爵令嬢ごときが恋をしていい相手ではなかった。
優しげな眼差し、明るい人柄、人目を引く容姿、そして立派な家柄とすべてを兼ね備えてる彼は、女生徒の間で人気があった。
学園では身分関係なく平等と言っていたがそれは建前で、爵位に応じてクラスが分けられていた。
下位の者が上に楯突けば報復が待っている。実際、私が目立とうと正義感を振りかざしたら、その直後我が家の取引先がひとつ減った。……身の程を思い知らされたのだ。
そのあとすぐに、こんなこともあった。
学年で一二を争うほど可愛い子――男爵令嬢が、ある伯爵令息に告白したのだ。
『あら、あなたは男漁りに学園に来ているのかしから?』
『いいえ、そんなつもりは――』
『勉学に励むつもりがないなら、退学なさったほうがいいわね。だってお金の無駄でしょ? ふふ』
彼を狙っていた高位の令嬢達から、彼女は陰湿ないじめを受ける結果となった。それから暫くして彼女は自主退学した。理由は病気療養のためで、それは貴族が理由を伏せたい時に使う常套文句だった。
私は想いを誰にも打ち明けず胸に秘めることにした。
……でも、なにか欲しいわ。
そう思った私は、偶然を装って彼の前を何度も通った。彼の目にほんの一瞬でも映るかもしれないと、ドキドキしながら一番綺麗な自分を演じてみせた。
笑っちゃうような思い出を胸の奥に大切に仕舞い、私は学園を卒業したのだ。
そして、淡い恋を忘れかけていた頃、私はお茶会の席でホグワル侯爵夫人と偶然知り合い、思いがけない幸運に恵まれた。
そして、今、私はあの恋の続きをしている。
ロイドは政略結婚で結ばれた妻を大切にしている、……誠実な人だから。きっと愛しているわけではない。
私は身の丈にあったものしか望まない。それが下位の者の正しい生き方――そうでなければ潰される。
私の目の前でロイドは、綺麗な指で書類を捲っていく。その微かな音を私の耳が捕らえる。今、この瞬間、彼の指の繊細な動きを見ているのは私だけ。この音を聞いているのも私だけ。
これは私だけのもの、誰にも渡さない。
それ以上なんて望んでいない。……私が求めていいのはそこまでだから。
私は優秀な補佐役に徹し、彼の隣に居続けようと努力する。
でも欲を言えば、さっきレティシアがこの部屋を出ていく時のような顔をもっと見たい。侯爵夫人に叱責される彼女でもいい。兎に角、彼女の顔から笑みが消えればそれでいいのだ。
頑張らずに失敗してくださいませ、レティシア様。
――誰も傷つけない穏便な方法で、私は溜飲を下げる。
自分が特別に性格が悪いとは思わない。誰だってやっているはず。特に生まれのせいで、理不尽な目にあっている人は……。
カチャカチャと音がするほうに目をやると、テーブルの上に並べてあったカップを片付けている侍女の姿があった。用意したお茶が冷めてしまったから、淹れ直そうとしているようだ。
手間を掛けさせて申し訳ないと視線を下に落とすと、気づいた彼女は笑みを返す。
ここの使用人達はみな私に親切だ。
私は以前、他家に仕えたことがあるけれど、なぜか周囲と上手くいかないことが多かった。
『なぜ、出来ないの?』
『他に優先することがあったのです、これからやろうと――』
『どうして言い訳をするの? そんなこと考える時間はあったのね』
『……』
いつも相手に落ち度があった。でも、注意する度になんとなく居心地が悪くなり、その家の当主からは『優秀なのに……』と惜しまれたけれど自ら望んで辞したのだ。
でも、ここは違う――ホグワル侯爵家は私に合っている。運命のようなものを感じずにはいられなかった。
侍女に対してにこっと私も笑み返していると、書類を捲る心地よい音がやんだことに気がついた。