37.次期候爵夫人でなくなった私
義父はペンを手に取ると、目の前に置かれた紙に署名する。
息子の妻を挿げ替えることにしたのだ。その頭の中には、私と同等かそれ以上の身分を有して、かつ優秀な令嬢の名前がたくさん浮かんでいるのだろう。
「さあ、お前の番だ」
義父がロイドにペンを差し出すが、ロイドはそれを手にするのを拒んだ。
「父上、私はレティと離縁する気はありません。愛しているのです!」
「貴族ならば家のために生きろ、ロイド。そもそもレティシアとお前の結婚も政略から始まったものだ。愛したいのならば、次の相手を愛せばいい」
「愛とはそんな軽いものでは――」
「だが、お前はアリーチェを抱いた、簡単にな。愛なんて、所詮は気の迷いに過ぎない」
ロイドは黙ってしまった。自分の発言を自分の行動が否定しているのだから、反論できようもない。
「お前とレティシアの離縁は、当主である私の決定だ。ロイド」
義父がそう命じると、ロイドは項垂れながら空いた欄に自分の名を綴る。署名欄はすべて埋まった。これを提出すれば正式に離縁が成立する。
「レティ。私は本当に君のことを愛しているんだ……」
私は彼の言葉に応えることなく、ゆっくりと立ち上がる。
「お義父様、ロイド。短い間ですがお世話になりました。本日中にこのお屋敷から出ていきます。きっと私に会えば心穏やかではいられなくなると思いますので、お義母様にはご挨拶は控えさせていただきます。よろしくお伝えくださいませ」
「承知した。こんな結果になって残念だった、レティシア」
淡々とそう告げてくる義父――いいえ、ホグワル侯爵に頭を下げてから、私はマールと一緒に退出した。
兄はその場に残った。項垂れたままのロイドを放ってはおけなかったようだ。
私が離縁しようとも、兄にとってロイドが友人であることは変わらない。そして、辛い時に寄り添うのが友だ。
私だって、マールにたくさん助けられてきたわ。
ロイドのことを許す日は来ないと思う。でも、彼の不幸を望んではない。それは寛大なのとは違う。
……たぶん、もう彼に対して向ける感情が一欠片もないのだ。
それから私は、メルアを筆頭に多くの使用人達に見送られてホグワル侯爵邸をあとにした。みな私との別れを惜しんでくれたけれど、引き止める言葉を口にした者は誰一人いなかった。
『レティシア様、どうかお元気で』
『絶対にお幸せになってください、レティシア様』
『レティシア様、心からお慕いしておりました』
多くの温かい言葉を大切に胸に仕舞って、私は兄が乗ってきたバーク侯爵家の馬車に乗り込んだ。
馬車の中では向かい合った座席の対角する位置に私とマールは座っている。本当なら彼は次の診察に向かう予定だったけれど、兄が同乗しなかったので、私を一人にできないと気遣ってくれたのだ。
「今日は本当にありがとうございました。マール先生が助けてくれなかったら、上手くいってなかったと思います」
「もし私がいなかったとしても、レティシア様なら乗り切ったと思いますよ」
「そうでしょうか?」
「はい、あなたは強い人ですから」
……強くなんてないわ。
そう、私は弱い。だから、こんな方法でホグワル侯爵家から逃げ出したのだ。
「……強かったら、あの子の死を利用してなんかいません」
絞り出すように告げた言葉は微かに震えていた。
あの子は幻滅しているだろうか――自分勝手な母だと。
「レティシア様は貴族社会の常識を逆手に取っただけです。あの子は空の上できっと喜んでいます。大好きな母が新たな人生を始めることを」
温かいものが私の頬を静かに伝っていく。マールが言うからこそ心に響くのだ。
私が口元を押さえて嗚咽すると、彼は窓の外に目を向け気づかないふりをしてくれる。
良かった、友人でも泣いている姿は見られたくない。
「私はこれでも名医だと言われています。この先診断のひとつやふたつ、間違っていたとしても、それくらいで私の評判が落ちることはありません」
彼は心地良い声で独り言のように呟いていく。
マールは私に、嘘を本当にしなくてもいいのだと伝えてくる。でも、私は嘘を本当にするつもりだ。
……それに、私はもう誰かを愛せないと思う。
「レティシア様。あの子がまたあなたのもとに帰って来たら良いですね」
私は首を一度だけ小さく横に振って『……あの子は一人だけです』と告げる。もしこの先新たな命が私の体に宿ったとしても、それはあの子ではないから。
「ええ、そうですね。あの子の魂は唯一無二です。どんな器に宿ろうとも、それは変わりません」
あの子は消えたわけではない、またどこかで誰かの子として生まれ変わる可能性があるのだと、マールは教えてくれた。
……その時には幸せになって欲しい。
私がぽろぽろと涙が流していると、彼は窓の外を見ながら続ける。
「レティシア様、幸せにはいろんな形があります。もちろん、子を授からなくとも幸せになれます。ですが、幸せの形のひとつを、自ら手放すのはおやめください。誰よりもそれを望まないのは――あの子ですよ」
窓の外にある空を見ながら、私は止まることがない涙をそっと拭っていく。
誰かと結ばれる人生を思い描くことなど出来ない。
でも、あの子が私の幸せを願っているという彼の言葉は信じることが出来る。
ねえ、赤ちゃん。もしどこかで生まれ変わったら会いに来て……。




