35.嘘つきな私①
「ホグワル候爵様、本日はお時間をいただきまして有り難うございます」
「レイリー殿、ご足労頂き感謝する」
「……っ! レティ、それに――」
兄に続いて私とマールが執務室に入る。
義父はすっと目を細めたが、にこやかな笑顔を崩すことはなかった。一方、ロイドは目を見開いて、驚きのまま言葉を発し掛けたけれど『ロイド…』という義父の低い声に思いとどまる。
ロイドは友人である兄に目で説明を求めていたが、兄はそれ応えることなく、まずは持参した厚い封筒を義父に差し出した。
「こちらが書類です。不備がないかどうか後でご確認ください」
「いつもならその場で確認をしているが、今日は違うことに時間を割きたいということだな」
義父はそう言いながら、横目で招かれざる者――私とマール――を見る。
「はい、その通りです。事前にお知らせしなかったこと、深くお詫び申し上げます。ですが、妹から大切な話がありますので、どうか聞いて頂きたい」
兄が深々と頭を下げると、私もそれに続いた。
義父は私達に席を勧めながら、つま先を小刻みに揺らしている。それは彼が苛立っている時に見せる仕草だった。
表面上笑みを保っているのは、バーク候爵家の次期当主である兄の顔を立ててのことだろう。
義父とロイドが長椅子に並んで座ると、対面する長椅子の真ん中に兄、その両隣に私とマールが腰を下ろす。それぞれの前にお茶が置かれると、メルアは話の邪魔にならないように気配を消す。ただならぬ雰囲気を察したのだ。
最初に口を開いたのは私だった。
「お義父様、ロイド、時間を割いてくださりありがとうございます」
「レティ、いったいどうしたんだ? 話ならこんな形でなくとも良かったのに。私はいつだって君との時間を取っていたじゃないか」
「確かに、あなたとは何度となく会話を重ねてきました。ですが、多忙なお義父様と話をするにはこういう形しかなかったのです」
「それで、なんの用件だ。レティシア」
義父は射るような目つきで私を威圧する。遠慮がないのは、私がこの家の者で、かつ女性だからだ。
嫁ぐ前は父に従い、嫁いだあとは夫に従う。――その常識を守ってない私に苛立っているのだ。
義母に対する仕打ちを目の当たりにした私は竦んでしまう。
……しっかりするのよ、レティシア。
自分を鼓舞しようとするけれど上手くいかない。
義父は非情なだけでなく優秀な人でもある。夜会で壁の華となってしまう私なんかが敵う相手ではない。
早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと胸に手を当てていると、隣の兄が囁くように私の名を呼ぶ。
首だけそちらに向けると、兄だけではなくマールも私を見つめていた。大丈夫だからと、二人はその眼差しで伝えてくる。
それに、膝の上に置かれたマールの右手の人差し指は小さく振れている。あの時、私を笑わせたポーズをこじんまりと再現しているのだ。
……ふっ、マール先生ったら。
表情に浮かべる余裕はなかったけれど、心のなかでそっと笑う。
――私はひとりじゃない。
深呼吸してから、俯いてしまいそうだった顔を上げ、私は義父とロイドに向き合う。
「この家に嫁ぎ多くのことを学ばせて頂き感謝しております。ですが、至らない私は次期候爵夫人に相応しくありません。謹んで離縁を申し出たいと思います」
兄は一枚の紙をテーブルの上に置く。それは離縁届だった。
貴族の離縁に際しては当人達だけでなく、両家当主の署名も必要となっている。私とバーク候爵である父の署名欄はすでに埋まっていた。
「な、なにを言ってるんだ?! レティ、私は聞いてないぞ、そんな話はっ」
「初めて言いましたから。だってあなたは私の気持ちなんて一度も尋ねませんでした。ご自分のことばかりでしたから」
「そんなことはないっ!」
彼は身を乗り出して叫ぶ。
「では、私から聞いたことを教えてください。ロイド」
「それは……、えっと……兎に角二人でゆっくり話そう。君は混乱しているんだ。な? レティ」
途端に彼はばつが悪そうな顔をする。記憶力が悪い人ではないから、私との会話を思い出したのだろう。
今更なにを話すというの? 時間ならたくさんあったわ。でもその時間をあなたは、言い訳だけに費やした。一秒たりとも、あの子を悼むためには使わなかった。気づいてすらいないでしょうけど……。
動揺する彼を前にしても、私は冷静だった。……もう気持ちは残っていない。
――トントンッ。
義父がテーブルに置かれた離縁届を指で叩く。
「私が知るバーク候爵は、政略を軽んじる愚か者ではない。なのに、署名がここにあるということは、それなりに納得がいく離縁の理由があるのだろうな? まさか、愛人如きで泣きついて書かせたわけではあるまい、レティシア」
「妹はそんなことは言っておりません! 愛人に悋気してなどでは決して――」
「レイリー殿、私はレティシアに聞いている。彼女はこの家に嫁いだ身だ。君の妹である前に、私の義理の娘であり、ロイドの妻だ。口を挟まないでいただきたい」
義父は兄を威圧するような低い声で遮った。その顔からもう温和な笑みは消えている。バーク候爵家の次期当主であろうとも、これ以上の無礼は許さないと、その鋭い目は語っていた。
それでも兄は私を守るように、その身を乗り出そうとしてくれる。
妹思いの兄、そして実家を窮地に立たせたいわけではない。私は隣に座る兄の拳にそっと手を重ねる。
「ありがとうございます、お兄様。私から説明します。大丈夫ですから、そんな顔しないでくださいませ」
「……レティシア」
兄にとって私はいくつになっても幼いままのようだ。眉を下げたその顔には心配で仕方がないと書いてある。
でも、自分の決断を背負うのは私自身でいい。
「お義父様がおっしゃる通り、父は愚か者でございません。署名をしたのは娘のためではなく、ホグワル候爵家に対して誠実であろうとしたからです。――私はもう子供を産むことは出来ません」
私がそう告げると、義父の鋭い視線はここまで一言も発していない者へと移った。




