34.大切な友人
私が温室の中に入ると、マールは長椅子に座ってメルアが淹れたお茶の香りを楽しんでいた。その嬉しそうな横顔は子供のようでお医者様には見えない。
「お待たせしました、マール先生」
「私が早く着いただけですから。急がせてしまったようで申し訳ございません」
ふふと私が笑うと、何がおかしいのだろうと彼は首を捻る。彼は約束の時間通りに来ている。なのに、いつだって優しい嘘をつく。
「同じような会話を何度もしていますね、私達は」
「あれ? そうでしたか……」
「はい、間違いありませんわ、マール先生」
彼は腕を組んで、うーんと少し考えてから頬を緩ませる。
「そう言えばそうでしたね。では、今度は、違う台詞を言うために遅れてくるとしましょう」
彼は笑いながらこう言ったけれど、きちんとした人だから、きっと遅れてくることはないと思う。
でも、それを私が確認することはない。ホグワル候爵家を出れば、もう定期検診を受けることはないから。
……心地良いこの時間も今日で最後。
まだそのことを知らない彼は、普段通りに診察を始める。
「レティシア様、顔色は良いですね。食欲は戻っていますか?」
「はい、戻っております。マール先生、お願いがあるのですが聞いていただけますか?」
「もちろんです。私でお役に立てるなら」
「私は今日、離縁を申し出ます。その時に私は嘘をひとつだけ吐きます。たぶん、後日義父から先生に確認の連絡が行くでしょう。どうか、その嘘を見逃してください。ご迷惑はお掛けしないとお約束します」
最後の台詞は嘘ではない。……嘘を本当にすればいいだけ。
本来なら、先に彼の了承を取るべきことだった。でも、誰かの――それが信頼する人だとしても――意見に流されることなく、私は自分で決断したかった。だから、誰にも相談せずにことを進めた。
彼は離縁という言葉を聞いても驚いた顔はしていなかった。薄々気づいていたのかもしれない。彼は常識に囚われない考えの持ち主だから。
「分かりました、レティシア様」
「ありがとうございます。その嘘ですが――」
彼は説明しようとする私を手で制した。
「どんなことだろうと、私はその嘘を肯定します。ただひとつだけお聞きしたい。医者である私がその場にいたほうが良いのではないですか?」
確かにその場で彼が私の嘘を認めてくれたほうが今日中に決着が着くだろう。
でも、そこまでは甘えられない。
義父にとって女性は見下してもいい存在。その私から離縁を申し出たら彼はきっと憤怒する。もしかしたら、耳を塞ぎたくなるような言葉が飛び交う可能性だってある。
「大丈夫です」
「ということは、その場に立ち会っても構わないということですね?」
私の言葉を、彼は逆手に取って返事を返してくる。普通なら嘘の内容を確認するだろうに、彼はそれよりも私の身を案じることを優先する。
「マール先生は、どうしてそんなに親身になってくださるのですか? 私はもうすぐ鴨ではなくなりますよ」
鴨という言葉を使ったのは深刻な雰囲気になるのが嫌だったから。彼とは最後まで軽やかな会話を交わしたかった。
……それに私はずっと救われていたから。
「あなたの代わりとなる鴨は大勢いますからご心配なく。ですが、私は友人が多くありません。……いいえ、見栄を張りました。お恥ずかしながら殆どおりません。レティシア様は私にとって貴重な友人です。あなたにとって私も信頼に値する友になれていると嬉しいのですが、いかがでしょうか?」
彼はいつもより軽い口調で、嬉しい言葉を紡いでいく。
主治医と患者としての関係は今日が最後だとしても、私達の関係は変わらないのだと言ってくれる。
そして、嘘の内容を尋ねないのは、医者として察しているからだろう。でもそれだけじゃなくて、私を信頼してくれているから。
――こんなに素敵な友人はいない。
「私にとってもマール先生は大切な友人ですわ」
「ならば医者として証言し、友人として立ち会いましょう。お邪魔はしないと約束します。いいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いしま…す」
胸がいっぱいで微かに涙声になってしまう。
「ですが、助けて! という場合には、そうですね、両手をこう大きく振ってください」
「ふふ、それでは溺れている人みたいですね」
彼は両手を上げてブンブンと振って見せ、一瞬でこの場を笑いへと変えてしまう。
非情な義父との話し合いを前にして、私はとても緊張していた。決心が揺らぐことはないけれど、話が上手なわけでもない私が説得出来るかと不安だったのだ。
でも、彼との会話で心が軽くなった。
――私の大切な友人は、どんな時でも優秀なお医者様だ。
私達が笑っていると、温室の磨りガラス越しに兄の姿が見えた。来たらまずこちらに案内するように侍女に頼んでおいたのだ。私は兄と一緒に義父の執務室にいく約束をしていた。
もちろん、そのことは義父とロイドには告げていない。
「レティシア、待たせたな。……えっと」
「お兄様、今日はありがとうございます。マール先生もご一緒していただくことになりました」
「あ、ああ。そ、そうか……」
「レイリー、私は医者として証言するために同行します」
兄は最初戸惑った表情を浮かべていたけれど、マールの言葉を聞いて納得したようだ。私の嘘を信じている兄は、マールが差し出した手を、慌てて握り返した。
ふたりは名を呼び捨てている。どうやら、私の知らないところで親しくなったようだ。
それから、私達は三人揃って義父とロイドが待つ務室へと向かった。




