31.嘆く愛人(アリーチェ視点)
――ガッシャーン……。
私――アリーチェは力任せに花瓶を床に投げつける。私の部屋の扉は開け放たれたままで、当然この音は廊下まで響いているはず。なのに、誰も様子を見に来る気配はない。
なんで、どうして無視するの……!
視察を終えてホグワル候爵家に戻ってきてから、私に対する周囲の目は変わってしまった。
今までは使用人という同じ立場にもかかわらず、優秀な補佐役である私はみなから一目置かれていた。それは身分しかないレティシアと違って、私自身に価値があったからだ。
この屋敷は私にとって居心地の良い――正当に評価してくれる――場所だった。
なのに、掌を返したように使用人達は、必要最低限の会話のみという素っ気ない態度になった。
侯爵夫人のお気に入りではなかったから、何だというのだ! そもそも狂人の言葉をまともに取り上げるなんて馬鹿げている。
なにより、私自身は変わっていないどころか、その価値は上がっていた。なぜなら、ホグワル候爵家の跡継ぎとなる子を身籠っているからだ。
レティシアの子が流れてしまった今、私の子はスペアではない。つまり、その母である私は大切にされるべき存在なのだ。……たとえロイドに愛されていなくとも。
――だから、理由が分からなかった。
「誰か来てちょうだい!」
大きな声でそう叫ぶと、やっと侍女長と数人の侍女が手に箒と塵取りを持ってやって来た。やはり聞こえていたのだ。彼女達は手際よく片付けを始める。普通はお怪我はありませんかと気遣うのが先なのに……。
「なにか言うことはないのかしら? 《《メルア》》」
以前はメルアさんと呼んでいたけど、今は立場が違う。それを分からせるために、わざと呼び捨てる。
「無闇矢鱈に物を壊すのはおやめください。ご存知だと思いますが、高級品ですので」
「……っ……」
侍女長は誰に対しても丁寧で物腰が柔らかい人だった。それなのに、私を見ようともしない。
そうか、そうだったのね……。
男爵令嬢だった私が上の立場になったから悔しいのだろう。だからこの態度なのだと鼻で笑う。
理由が分かれば対処しようがある。上下関係をはっきり分からせればいいのだ。
――自分よりも下の者は力で押さえつける、それが常識。
私は凛と背筋を伸ばして優雅に微笑んで見せる。
「メルア、私は優しいから今回は許すわ。でもね、二度目はないわよ」
「どういう意味でしょうか?」
「ホグワル候爵様に言いつけると言っているのよ」
そうしたら首にされるだろうが、可哀想だとは思わない。身から出た錆だ。
「どうぞご勝手にしてください。ですが、ご忠告します。数多の愛人を切り捨ててきた候爵様は、愛人という存在を重んじておりません。家令、侍女長、使用人達が口を揃えて『お暇を頂きたい』と申し出たら、どういう選択をするでしょうか?」
「私を脅しているつもり?」
私は余裕の笑みを浮かべて、ハッタリを口にした侍女長を嘲笑った。
確かに全使用人が辞めると言い出せば、候爵も動くだろう。
しかし、この屋敷で働く使用人は軽く五十は超えており、全員が足並みを揃えることなど無理だ。余程のことがない限り。
つまり、実現不可能なこの脅しは無意味だ。
「いいえ、事実を教えて差し上げただけです」
侍女長がそう言うと、片付けていた侍女達が一斉に『覚悟はあります』と冷たい視線を向けてくる。
でも、それは彼女達だけではなかった。
開け放たれた扉の前には、いつの間にか家令を筆頭に使用人達の中でも上の立場の者達が勢揃いしている。彼らは無言だったけど、その目で同じ言葉を語っていた。
「なんで、どうして……。あなた達は私のことを慕っていたでしょ?」
侍女長が淡々と答える。
「いいえ、私達が心よりお慕いしているのはレティシア様です。あなたは優秀な補佐役として、彼女の役に立っていると思われていただけです。なにを勘違いされたかは存じませんが、慕っていた者など誰一人としておりません」
嫌悪と侮蔑しかない視線に囲まれ、私はその場によろよろとへたり込む。もちろん、手を差し伸べてくれる者など誰もいなかった。
あの晩ロイドに求められるままに、肌を重ねたことを悔やんでも悔やみきれない。
候爵夫人という後ろ盾を失い、そのうえロイドからも愛されていないと知ってショックだった。でも、私は多くの味方――私を慕っている使用人達――に支えられているから大丈夫だと思っていたのに。
私はこれからどうなるの……。
ホグワル候爵は非情な人だ。使用人達を従えられない私など、子を生んだらお払い箱になってしまうかもしれない。
元愛人に真っ当な働き口など見つからないし、行き遅れだと詰る兄夫婦が当主となっている実家もあてにできない。
こんなことになるのなら、いらなかった……。
まだ平らなままのお腹に向かって、私はそう呟く。
身籠れば女性は母になるだと思っていた。
でも、憎々しげにお腹を見る私に、母になる覚悟など一ミリもなかった。




