26.新たな命
あのお茶会後も、私と義母の距離は微妙なままだった。自然を装って避けられている感じで、話す機会もない。
結局なんの進展のないまま慌ただしく時間だけが過ぎ、ロイドが帰って来る日を迎えた。
視察は予定よりも三週間ほど伸びてしまったから、彼と顔を合わせるのは一ヶ月ぶりになる。
手紙でのやり取りはあったけれど、内容は定期報告のみ。まさか義父母達も目を通す手紙で夫婦の問題を書き綴るわけにもいかず、こちらもあの時からなにも進まぬまま。
「はぁ……」
「だいぶお疲れのようですね、レティシア様」
「あっ、申し訳ございません、マール先生。決して診察を嫌がっているわけではなくて。いろいろ考えなくてはいけないことが――」
「分かっていますよ。それにわかり易く態度に表してくれたほうが、医者としては助かります」
眼鏡の奥にある目を細めて、マールは私の失態をなかったことにしてくれる。
今日はいつもの温室ではなく、ベッドが続き部屋にある応接室で診察を受けている。
なぜこの場所かというと、2週間毎に受けている診察ではないからだ。
昨晩、私は貧血で倒れそうになってしまった。平気ですと言ったのだけど、義父がマールに診察を頼んでしまったのだ。
「お忙しいのに急にお願いして申し訳ございませんでした」
「いえいえ、鴨は多いほど良いですから。ね? レティシア様」
「ふふ、そうでしたわね」
彼は診察の前に場の雰囲気を和ませてくれる。相変わらず優秀なお医者様だ。
丁寧な問診のあと、彼はベッドに横たわった私を診ていく。彼は助手を連れていないので、侍女長のメルアが代わりとなって手伝っている。
診察が終わると先にマールが部屋を出ていき、メルアに手伝ってもらって身支度を整えると、私も応接室へと戻っていく。
私が長椅子に腰を下ろすと、彼はおもむろに口を開く。
「おめでとうございます、レティシア様。ご懐妊されています」
後ろで控えているメルアから『まぁ!』と喜びの声が漏れる。目の前の彼もにこやかに微笑んでいて、ふたりの反応は間違っていない。
でも、私だけ笑えなかった。あんなに待ち望んでいた瞬間だったのに。
最初に思ったのは、喜びではなく『なんで、今なの……』という戸惑い。ロイドとの関係が拗れているのは、この子には関係がないのに。
私はまだ変化のないお腹にそっと手を当ててみる。
温かいわ、とっても……。
それは宿った命が伝えている温かさではない。けれども、私には『ここにいるよ』と赤ちゃんが必死に伝えているように感じた。不甲斐ない私に……。
……ごめんね、赤ちゃん。
心のなかでそう謝りながら、湧き上がってくる愛おしいという気持ちにほっとする。
――大丈夫、この先なにがあろうとも私はこの子を守っていける。
ロイドとの関係がどうなるかは分からない。もしかしたら、彼はこの子を喜んでくれないかもしれない。そういう不安はある。
でも、母になることに不安はない。だって、もう私はこの子の母親だから。
ありがとう、私のところに来てくれて。
私はお腹に向かって微笑みながら、『マール先生、ありがとうございます』と診てくれた礼を告げる。
――その気持ちに嘘はない。
「もう母親の顔ですね」
「そんなにすぐに変わりますか? マール先生」
なんかくすぐったくて、私はふふっと笑う。
「お腹の子を愛おしいと思った時点で女性は母になるんです。レティシア様、あなたはもう立派な母親ですよ」
彼の言葉と、私を見る優しさが宿った彼の目に、私は安心する。
もしかしたら、私の一瞬の戸惑いを彼は見抜いたのかもしれない。でも、責めるようなことは言わず、ただ、赤ちゃんのために”安心”をくれた。
ね、赤ちゃん。あなたはこんなにも守られているのよ。
私がお腹の子に語りかけていると、マールが声を掛けてくる。
「これからホグワル候爵に呼ばれているのですが、私から報告しますか?」
先ほど馬車が戻ってきた音が微かに聞こえて来た。ロイドの帰りはお昼頃の予定だったけれど、もしかしたら早まったのかもしれない。それならば、義父にはマールから、ロイドには私から伝えたほうが良いだろう。
「マール先生、お願いします」
「承知しました。それと、くれぐれも無理はなさらないようにして下さい。まだ安定期ではありませんので。一人で悩まずに吐き出したくなったら呼んでください。いつもの薬を処方しますから」
「ふふ、愚痴になっても良いですか?」
「お金さえいただければ、なんでも来いです。私は悪い医者ですから。ね、レティシア様」
「そうでしたね、マール先生」
なんでだろう、彼との会話で不安を消えていく。なにひとつ状況は変わっていないけれど、大丈夫だと思わせてくれるのだ。
良かったね、こんな頼もしいお医者様があなたの主治医になるのよ。
私は笑いながら、お腹の赤ちゃんに教えてあげた。
それから応接室からマールが先に出ていくと、入れ違いに家令がやって来た。
「若奥様、居間のほうにおいでいただいてもよろしいでしょうか」
「先ほど馬車の音が聞こえた気がしたけど、ロイドが戻って来たのですか?」
「……はい、お戻りになられました」
家令はどこか気まずそうに目を逸らす。それは珍しいことだった。彼はメルア同様に長く勤めており、どんな時でも動じない人だったからだ。
なにかあったのと問う私に、彼はただ頭を下げる。使用人の口からは言えない、もしくは口止めされているのだろう。
「分かったわ。すぐに行きます」
私がメルアとともに居間へ向かうと、そこにはロイドだけでなく義母の姿もあった。
ロイドは椅子に座り項垂れていたが、私に気づくとハッと顔を上げる。
「……あっ、その……久しぶりだな」
「おかえりなさいませ。視察お疲れ様でした」
「……あぁ……ただいま」
拗れたまま出発したからだろうか。その声は弱々しく不自然なほど私を見ず、また俯いてしまった。義母もまた私を目に映すことなく、部屋の中を無意味に歩き続けている。
焦燥しきったロイドと苛立っている義母によって、部屋の雰囲気はピリピリしていた。
いったい、なにがあったの……。
事情を尋ねようにも家令は一緒に来なかったので、聞ける人は誰もいなかった。あとから義父が来ると彼は言っていたので、それを待つしかないだろう。
「若奥様、どうかお座りになってくださいませ」
「ええ、そうね」
私の身を案じたメルアに促されるままに空いている椅子に一人で座ると、扉を叩くことなく義父が居間へと入って来た。しかし、なぜかその後にはアリーチェの姿があった。
どうして、ここに? それに、あの顔……。
彼女の顔色は真っ青だった。でも、片方の頬だけは赤く染まっている。……まるで誰かに打たれた跡のように。




