10.変わったお医者様②
薬の処方を受ける時の決まりはふたつだけ。それは話題を事前に考えないと、笑顔を無理矢理作らないだった。
『事前準備と過度な気遣いは薬を”毒”に変えてしまいます。ですからお控えください』と、マールから言われていた。
なので、今日も他愛もないことを思いつくままに話していく。社交やお茶会とは違って、無意識に肩に力が入ることもない。
「それで、レティシア様はどうされたんですか?」
興味津々という口調で話の先を求めてくるマール。彼は物静かな感じだけれども、実際は気さくな人だった。それに聞き上手なのでとても話しやすい。私の口は続きを話そうとなめらかに動く。
「こっそり髪についた虫を取ってあげようと思ったのですが、そのご令嬢の動きが、……ふふ、とても早くて。どうしましょうと思っていたら、虫が他のご夫人の顔に飛び移ってしまい、それに気づいた人達が叫んで。それはもう凄いことになりましたの」
マールは口元を緩ませ、声を出さずに笑う。独特な雰囲気を醸し出す、その優しい笑いかたは彼に合っている。
「伝説のお茶会となりましたね。その場にはメルアさんもいたんですか?」
「マール先生、笑い事ではございません。逃げ惑う方々でそれはもう――」
と言い掛けたメルアは堪らずに吹き出し、おっほほと軽やかな声が続く。
あの時の惨状を思い出したのだろう。ホグワル侯爵邸の庭園は駆けずり回る着飾ったご夫人方で……それはもう華やかだった。
三杯目のお茶を運んできてくれたメルアに、彼は自然に話を振った。
使用人を会話に加えようとする貴族はあまり多くない。それが高位貴族ならば尚更で、傲慢とかではなく習慣。
でも、彼は伯爵だけれども誰とも普通に話し、身分に関係なく誰でも診る。……人として尊敬できる。
メルアにつられて、私もふふと思い出し笑いする。声を上げて笑っている私達を目に映す彼の口元は、変わらずに緩んだまま。
実のある会話ではないけれど、心に残る楽しい時間。
――今日も薬の処方は完璧だった。
一時間ほど経った頃、温室に私の兄――レイリー・バークが案内されてやって来た。ロイドに用事があったようで、帰り際に私の顔を見に寄ったという。
ホグワル侯爵家とバーク候爵家は共同で行っている事業があるので、兄は時々やって来るのだ。
お茶を淹れようとするメルアを兄は止めた。
「時間がないので遠慮する。レティシア、元気そうで良かった。初めまして、レティシアの兄のレイリー・バークです。大変優秀なお医者様だと、お噂はかねがね伺っています」
「トウヤ・マールです。過分なお言葉をいただき大変恐縮ですが、噂ほど当てにならないものはありません。ですから、信じることはおすすめ致しません。またお会いできて光栄です、バーク様」
マールが差し出した手を握り返しながら、自分の失態に気づいた兄は眉を寄せる。
彼は"また”と言った。つまり、初対面ではないのだ。
以前どこかの夜会で挨拶を交わしたのに、兄は覚えていなかったのだろう。次期候爵という立場は大勢から声が掛かるから、きっと失念してしまったのだ。
私はうっかりな兄に厳しい眼差しを送る。お世話になっているマールに対して失礼な真似はして欲しくない。兄は目ですまないと私に謝ってから、視線をまた彼へと戻す。
「……本当に申し訳ない、マール伯爵。お詫びと言ってはなんですが、良かったら我が家の馬車で送りしましょう」
「ちょうど診察が終わったところなので、お言葉に甘えさせていただきます。また二週間後に診察に参りますが、変わったことがあったら遠慮なくご連絡ください。では失礼します、レティシア様」
「本日はありがとうございました、マール先生」
二人は連れ立って温室を出ていった。
磨りガラス越しに彼らの後ろ姿が見えなくなると、近くにある置き時計を確認する。夕食まではまだ時間がある。
ロイドの執務を手伝いに行こうかと思ったけれど、義母から頼まれた招待状をまだ書き終えていなかった。
急いで書いたら時間は作れるけれど、手は抜きたくない。……心を込めて丁寧に書きたいから。
私は片付けをしているメルアにお茶のお礼を言ってから、急いで自室へと戻っていく。
来た時と同じく慌ただしいけれど、素敵な薬のお陰でその足取りは軽かった。
◇ ◇ ◇
私――レイリー・バークはマールと一緒に、待たせていた馬車へ乗り込む。
「どちらまでお送りすればいいですか? マール伯爵」
「南通りにあるピロット公爵邸で降ろして頂けると助かります。診察の約束が入っていますので」
私が御者に向かって行き先を告げると、すぐさま馬車は動き出した。
ピロット公爵は気難しいと評判の人物だ。そこのかかりつけ医になったということは、この若さで公爵本人に認められたのだ。
信じられないな……。
彼は噂以上の人物のようだ。優れた医術を持っているのだろうか。それとも、話術が巧みなのか。
私とマールは並んで座っていた。今日は小回りが利く小さな馬車を使用していたので、向かい合わせに座るほうが窮屈だったからだ。
彼の横顔を見ながら、私は必死に思い出そうとしていた。だが、いくら考えても『トウヤ・マール』という人物と挨拶を交わした記憶がない。
記憶をなくすほど酔ったことはないはずだがと、私は馬車の揺れに合わせて頭を振る。
爵位はこちらのほうが上だと言っても、どこで会いましたかと今更聞くのは憚れる。会話から探るしかないだろう。
「私のことはどうか、レイリーと呼んでください。歳も近いようですし、なにより妹がお世話になっていますから」
「有り難うございます、レイリー」
彼はさっそく親しげに私の名を呼ぶ。
トウヤ・マールは生まれ持った色彩が黒一色なので、一見冷たそうに見える。だが、妹から聞いていた通り、彼は礼儀正しく温和な男だった。
地味な顔立ちだと思っていたが、間近で見ると綺麗な顔をしている。眼鏡のせいで損をしているのだ。外せばさぞかしもてることだろう。
彼の端正な横顔を見ていると、なんだか昔に見たことがあるような気がしてくる。
そうだ、眼鏡だ! 眼鏡を掛けていなかったんだ。
少しづつ今よりも若かった彼の顔が頭の中に浮かんでくる。……私は彼を知っているのだ。
――だが、呼び名が出てこない。
彼の名が“トウヤ・マール”なのは承知している。だが、思い出した眼鏡を掛けていなかった頃の彼と、その名が結びつかないでいた。
名字で呼んでいた感覚はなかった。もし呼んでいたならばマール伯爵と言った時点で、私はなんかしら思い出していただろう。だから、そう呼んだことはないのだ。
ならば、トウヤかと言えば……それも違う気がする。別の、……そう、愛称で呼んでいたのだろうか。そんな気がしてきた。だが、あと少しのところで出てこない。
どう呼んでいたかとは聞きづらいので、聞き方を変えることにした。きっと彼が答えてくれたら、ああそうだったとすべて思い出せそうな気がする。
無駄に悩むのをやめて私が顔を上げると、口角を片方だけ上げた彼と目が合う。
「さっそく呼んでもらえて嬉しいですね。私のほうは、あなたをなんと呼んだらいいでしょうか?」
「初めてですね、そんなふうに聞いてくれたのは。昔は”君”だったのに」
「……っ……」




