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3億円が当たったので燃やしにいった話

作者: 相浦アキラ

 小さなワンルーム。僕は積み木遊びをしていた。

 長方形の紙束を慎重に積み上げていくと、角ばったピラミッドができあがる。余った紙束は二つに纏めて狛犬のようにピラミッドの正面に置く。こいつらはスフィンクスだ。……しかし何をやっているんだ。僕は。いい年して馬鹿なんだろうか。


 息を吐いて少し離れて、改めてピラミッドとスフィンクスを観察する。紙束に刻まれた福沢諭吉がみんな僕を見ているような気がする。得体の知れない焦燥が襲ってくる。怖くなってピラミッドを押し崩すと、札束がなだらかな山に散らばって行く。沢山の諭吉が、異様な鳩胸の鳳凰像がこっちを見ていた。叫び出しそうなのを何とか堪えて目を背ける。


 ……やはり、これは現実だ。僕は宝くじで3億円を当ててしまった。未だに全く信じられないことだが、どうやらこれは現実らしい。夢だとしたら早く覚めて欲しいがなかなか覚める気配が無い。本当に、当たってしまった。本当に当たるとは思っても見なかった。ただ運命に流される自分の小ささを感じたくて、毎年年末に10枚買っていただけだったのに、まさかよりによって一等が当たってしまうとは。


 もちろんぼんやり考えたことはあった。もし一等が当たったらどうするかって事くらい。しかし本気で考えたわけじゃなかった。当たったら全部燃やしてやるとか、積み木遊びしてハイパーインフレごっこしてやるとか、そういう下らない思いつきで悦に浸っていただけだった。本気で考えた事などなかった。


 今だって本気で考える事などできないでいる。実感が無いんだ。3億円の実感がない。残高が桁違いになった通帳と睨めっこしてみてもダメだった。銀行に無理を言って全額引き落とし積み木遊びをやってみても同じことだった。やはり全部嘘だったような気がしてならない。ただ札束を集めて無数の福沢諭吉と対面していると、いわくつきの呪物と対面しているような恐怖に駆られるのだった。この恐怖を突き詰めていけば、僕は実感を得られるのかも知れない。


 しかしこの恐怖はいったい何に起因しているのだろう。何故僕はただの紙束をこんなにも恐れなければならないのか。……それは、札束の奥に蠢く人々の意志を見出してしまうからだろう。確かに物質的にはこれらはただの紙束に過ぎないが、人々の欲望、慣習、合理性、非合理性、実利、社会システムなどなど無数の観念が積み重なって共同幻想となりこの札束に価値を与えてしまっている。いや、結局のところこの紙束に価値を与えているのは僕の自意識なのだろうが、その自意識に人々の観念が浸食し、歪めようとしてくるのだ。そりゃ恐ろしい筈だ。この紙束に価値を付与しようとする共同幻想はどこまでも強大で、僕の自意識は手も足も出ず一瞬でのまれてしまいそうになる。しかし、落ち着いて考えてみればこの紙束が紙束に過ぎない事もまた事実ではないか。


 そもそも、人々はなぜこの紙束に価値を見出すのか。MMTとかいう最新の経済理論によると、納税制度の存在自体が貨幣に価値をもたらしているらしい。納税に貨幣が必要であれば、強制的な需要が発生し人々は貨幣に価値を見出さざるを得ないというのである。なるほど発想としては面白いが、この理屈にも欠陥があるように思える。日本から税金が無くなればただちにこの札束に価値がなくなるかというと、そうは思えないからだ。つまり、結局この紙束の価値を担保しているのはどこまでも共同幻想であり、もっと言えばその共同幻想と調和している僕の自意識に過ぎないという事だ。しかし、こうして怯えながらもじっと見ていると、禍々しい宝の山がただの紙束にしか見えなくなる瞬間も確かにあるのだった。この紙束は虫や微生物にとってはエサとしての価値しかないだろうし、ジャングルの奥地で暮らす人々にとっては精々が燃料としての価値しかない。価値とは認識が作り出すものだ。だから僕が認識を制御してその気になる事ができれば、この紙束を灰塵にしてやることもできる筈だ。僕はそうしなければならない。そうしなければ僕は人々の共同幻想に取り込まれ自分を失って堕落してしまう。そして死の直前になって後悔するんだ。すべてが消えていくのに、こんな紙束を確かな物だと勘違いして遊び回って時間を浪費するだけの人生を送り、余命を宣告された途端に全てが虚無だったと思い知って後悔しながら死んでいくんだ。


 そもそも僕が宝くじを買ってきたのは運命に敗北する為だった。運命に対する自分の小ささをはっきりさせる為だった。自分が特別な存在でない、死すべき運命を背負った一個でしかない事を悟る為だった。こんなものに囲まれて生きていたら、僕はどうしても自分が特別だと誤解してしまう。


 ならば、どうするか。誰かに譲渡するか? ツイッターでフォローしたら先着100名様に300万円プレゼント企画でもするか? ……それもまたくだらないことだ。そんな事をしていたら、どうしても僕は人を見下してしまう。エサに集る虫を見る様な目で人を見るようになってしまう。自分が特別だと勘違いしてしまう。なにより、僕の金が誰かの手元に渡るという事が耐えられなかった。共同幻想は伝染する。人の歓喜する姿を見たら、僕はきっと後悔してしまうだろう。となったらもう、やはりこの手で全部燃やすしかない。


 黒のビニール袋を取り出し紙束を投げ込んで行く。重くなりすぎないようもう一つ袋を取り出しては紙束を投げ込んで行く。バラバラにした死体を集める殺人犯の気持ちが分かる気がした。袋はずっしりと異様なまでに重かった。米袋くらいはあった。人気のないキャンプ場は既に調べてある。一袋ずつ抱えて車に詰め込んで、着火剤とライターも用意した。乗り込んでエンジンをかける。


 分かっている。どのみち僕は後悔するのだろう。僕だって本当はこんな事はしたくない。本当は仕事を辞めて美味しい物食べて欲しい物を買ってダラダラと暮らして行ったほうがいいのかもしれない。しかし、それでは駄目だ。僕はこうしなければならない。僕はこれを全部燃やさなければならない。そうしなければ僕は僕でなくなってしまう。


 赤信号。交差点で停止する。信号はすぐに青になった。アクセルを踏むと、車の影から現れたのはパトカーだった。フロントガラス越しの小太り中年巡査が頭に紺の帽子をのっけていた。一瞬、目が合った気がした。「あっ!」声が出ていた。後部座席のゴミ袋が気が気でなかったが、入っているのは死体でなかった。僕がやっている事も犯罪では無かった。だから警察が僕を捕まえるという事はあり得ない話だった。車を停車させて職務質問することも……多分ないだろう。サイドミラーからパトカーが消えるのを確認して、僕はやっと息を取り戻した。


 しかし……あの男は僕がしようとしている事を知ったら、何というだろうか。「あなたはなんてもったいないことをするんですか」と不機嫌な顔で顰め面を作ってみせるんだろう。僕は言い返すだろう。「あなたには関係ありませんよね。僕は何も法律に反するようなことはしていません。調べは付いているんですよ。確かに硬貨を損傷する事は犯罪ですが、紙幣は対象外なのでいくら損傷しても犯罪にはなりません。もちろんあなたはご存じでしょうけど」


「無論存じ上げておりますとも。しかしですね、あなたも日本社会で生きているのですから、公共の利益というものを考えて頂かないと……あなたには運命の恩寵を受けた者として、その利得を社会に還元する責任があるのでは?」「そりゃあ、僕だって鬼じゃない。本当に飢え死にしそうな人がいたら食べ物を分け与えるくらいの事はしますよ。でも今の日本ではそんな事は社会の役割だ。セーフティネットは一応機能しているじゃないですか。市役所の職員とうまくやっていければ、喰って寝るくらいの事はできる。海外の困っている人だって、結局金だけじゃ解決しないって事もYOUTUBEでやっているじゃないですか。だからもう充分なんです。こんな物全く必要ないんです。ゴミなんです。人間なんて喰って寝るだけでいいんです。なのに連中はこんなゴミにご執心だ。本当にこのゴミは、麻薬みたいなもんですよ。連中にこんなオモチャをプレゼントしても堕落するだけだ。全部茶番なんです。全部嘘なんです。こんな紙束で得られる物なんて」


「ほう。あなたはただゴミを燃やしに行くだけと。それにしては顔色が悪いですなあ」「人の勝手でしょう。さっきから何ですかあなたは。私が何か悪い事でもしましたか? 断言しておきますけど、絶対に一円たりともやりませんからね。絶対に! これは僕の金だ。誰にも渡さない。僕が僕の手で燃やしてやるんだ!」「あなたがどうなさろうともちろんあなたの自由です。しかし、一つだけ私は気になってならないのです。あなたはご自分の感覚を裏切ろうとなさっているのではありませんか?」「感覚?」「あなたはこれから市中を引き回されるような焦燥の中でキャンプ場へと向かい、自分を火にくべるような苦痛の中で札束を燃やして行くのでしょう」「だったら何だっていうんです」「それが感覚を裏切っているという事なんです。よくないという事なんです」「そんな事は大したことじゃありません。僕にはもっと大きな目的があるんです! 倫理があるんです!」「倫理なんてのはですね、考えを重ねていけば勝手に消えてしまう類の概念に過ぎませんよ。対して感覚というのは、これは否定しようがない。疑いようがなく存在している。痛みを疑ってみても、痛みが消える事はありません。この世界は感覚だけが絶対と言っても良いでしょう。その感覚をあなたは裏切ろうとなさっている。逆説的に申し上げますと、そういった裏切りは倫理にもとるのではありませんか?」


「何が逆説だ! あなたの言っている事はおかしいじゃないですか! あなたはただ、馬鹿な連中の共同幻想に囚われているんだ! あなたには自分と言うものが無いんだ!」「確かに私は共同幻想に囚われているのかもしれません。しかし、それはただ囚われているのでは決してありません。私が共同幻想に身を投じるのは、自らの感覚がそうすべきと叫ぶ内においてです。だから、社会の要請が私の感覚に反するならば、私はすぐにでも社会から離脱する心づもりです。例えば政府に大儀なき殺人を強要されれば、私は全力を持って命を賭してでも反対します。私の感覚が反対するからこそです。倫理があるとしたら、感覚こそが倫理なのです。……一方であなたはご自分の感覚を否定してしまっている。自己を否定してしまっている。共同幻想に合一する事も自己として存在する事もできないのでは、一体何が残ります? 幽霊と大して変わらないではありませんか」


「……あなたは……間違っている」「ほう」「確かに感覚というのは大切かも知れない。しかし、僕は死の直前の感覚を大切にしたいんだ。その時の感覚を大切にしたいからこそ、今を犠牲にしようとしているんだ。あなたには結局、規範が無い。時間が無い。平面なんです。薄っぺらなんですよ。それに……僕はやっぱり、感覚以外の事も信じたいんです。感覚が消えた後の……死後の世界です。自分が死んだ後の肉体と同じように、僕の精神も死ななければならない。死を受け入れなければならないんです」「そうですか」


 僕が気を取り戻した時には、予定していた道筋を大きく逸れていた。県道を走ってあらぬ方向へと車は走っていた。一体どこへ向かっているのだろうか。分からなかったが、とにかく僕は随分と落ち着いているようだった。こうして落ち着いてみると妄想の中の巡査の言い分にも一理あるような気がする。もっと話してみたかったが、彼はもう何も話してくれそうになかった。とりあえず家に帰ろう。家に帰って、また考えよう。フロントミラーを伺うと、後部座席に二つのゴミ袋。偉そうに気怠そうに寝そべっている。


 運命がこいつらをもたらしたのなら、運命がこいつらを攫ってくれればいいのに。寝ぼけてゴミと間違えて燃えるゴミに出すなり、突風が吹くなりなんなりして、全部消えてしまえばいいのに。いや……もういいんだ。今は。まだ間に合う。まだすべてが間に合うじゃないか。……そうだ。何にせよ、まだ時間はある筈だ。急いで結論を出すことも無いんだ。家に帰って、また考えよう。


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