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「兄ちゃん、なんでここに来たんだ」
俺がお冷を飲みつつ尋ねると
「ええまあ、あのですね、嫁がその……まあ、外で男作って出ていったんですけどね」
と、そのツンツンの髪の毛はなんなんだ、というくらいのしょぼしょぼ声で答えた。
「うそ。あんた、浮気されたかい?」
「ええ、そういうことに、なりますよね」
「かーっ。きついなあ」
その手の人間もここに来るのか。
吹き溜まりだぜーここは。
俺はなぜか、自分の頭をガリガリと掻いた。やるせない感じがしてきたんだ。
「もう本当に悔しいです、えっと、瑪瑙さんっていうんですか?」
「そう呼んでくれりゃええぞ、俺の事は。なんでも言いな、聞いてやるよ」
「ありがとうございます。失礼ですがご結婚、されてますか?」
ちらと俺の左手を確認してから、聞いてくる。いちおう、というわけか。
「いやいや。その気配すらないね。ずっと独身や」
「そうですか」
いちど、鼻を触ってから切り出す。
「僕の嫁の話なんですけどね」
「おう」
「相手の男が、ちょっと危ない人らしくて……前々からなんか怪しいなとは思っていたんですけど、まさかというか、そう思いたくないと言いますか……だけど、最後の方はもう意地になって現実から目を背けていたような節もありましたし、そういうナヨナヨした部分も含めて、仕事や会社の付き合いばかりの自分が悪いのかもしれないですけど、だけどどうしても納得がいかなくて……」
自分自身に一生懸命説明しているように感じられる。
「しんどくてココに来たってんだな。なるほど」
「はい」
お冷を飲んで、一息。
「瑪瑙さん」
「どないした」
「僕、これからどうしたらいいんでしょう」
どことなく他人事っぽくも聞こえた。
本当の危機感がない。
そんな風に感じる。
「……知るかよそんなこと。そこはおめえ、自分でなんとかせえよ」
――って、少し前の俺なら突っぱねてたところにぐっとブレーキがかかる。
意識せず、勝手に。
それで、次の瞬間にはもう、自分の事のように一緒になってか改善策を模索していた。
この時が、カンちゃんとの唐突なこの接触がもしかしたら、俺の中の変化の誘い水だったのかもしれない。
「……まず、あんたの嫁さんは、あんたに対する感情はもう無ぇな」
カンちゃんは黙り込んだまま。頷きもしない。
気持ちはわかるが、黙り込まれるとちょっと気を遣うもんだ。
マダムも、タヒチも、何も言わない。どんな表情をしているかすら読み取れない。
「だって、気がある男を、それも結婚して旦那・嫁の関係の相手をそうそう裏切るもんかね? ……まあ無いとは言い切れんかもしれんが、俺はそういうのは個人的に好かないね。理由はちょっと俺には分からんけども、あんたはとりあえず、もう嫁さんの中では〝ナシ〟になってんぞ。分かるか、ここ」
「……そうですよね……あぁ。きつい」
片手を額につく。
少し追い込んでしまったような、いたたまれない気にもなるが、ここは俺もガマンだ。
そんなのなら、自分も一緒に傷つく覚悟がないなら人にアドバイスなんかするな、というのが筋だからだ。
「……まぁなんだ、追い詰める気もないけど、前から薄々気付いてたんだろ? 心のどっかでさぁ」
ついさっき、タヒチに聞いたハインリッヒの法則が、頭の中で明滅する。
彼も以前から薄々気付いていた――つまり前兆が、明らかなオーメンが――絶対にあったはずだ――
「はい。嘘ついても仕方ないですからね。気付いてましたよ」
マダムの知り合いとわかっているとはいえ、初対面の俺にここまで打ち明けるなんて、きっと相当参ってるんだ、この若いサラリーマンは。
同情の余地は、余りある。
こんな状態の彼なら、いとも簡単に詐欺やら宗教やらのカモにされるだろう。
なぁに、そんなのは手に取るようによーくわかる。
「だったら、もう逃げらんないんだからよ、こっちから切るくらいの覚悟で、毅然とした態度であんたから別れを切り出せばいいさ。主導権はこっちにあるんだから。そもそも、あんた嫁の話はいいけど子供は?」
「僕ら、子供はいません」
「だったら、なおの事さっぱりするじゃねえか。な? どうよ。子供がいたら何かと大変だぞ。噛み合わない事もたくさんだ。裏を探るような事を言われて腹を立てることもないし、自尊心をボロボロにされる事もない、フリーっていいもんよ」
「瑪瑙さん、お子さんいらっしゃるんですか?」
眼鏡の奥の目がザンザラリ、と大きくなる。そこに、人間特有の嫌な〝人間らしさ〟を感じて生唾を飲む。
「あ、あぁ、いやまぁ俺の子じゃねえけどちょっと訳あって、小学生の女の子の面倒見てるんだわ。保護者は保護者だ、人の親ではないけどな」
「すごい……訳アリなんですね。子供の相手って、どんな感じですか? 保護者として子供を見ると、どんなものが見えるんですか?」
「んー…………痛いな」
「痛い?」
「あぁ。餓鬼って意外と心を抉るような事を飄々と抜かしやがんだわ。悪気ないのはわかるけど、なかなか堪えるぞー。あんたにゃ耐えられるかな? ってなもんよ。ははは」
「そうなんですか……いいですね~。僕なんか、子供なんて絶対扱えないです。人を一人育てるなんてそんなこと、子供から大人になりきれてない僕には絶対に無理」
「んな事はわからんだろ。やってもねえんだから。さっきのは半分冗談だ、間に受けるな。そうやって、やってもないのにウダウダ言うなよ、男だろ。しっかりしろよ。そんなだから女房にも逃げられるんじゃねえのかい?」
ずっと黙っていたタヒチに肘鉄を食らう。
「いてて……わり、ちょっと言い過ぎたか。まぁいいや。それより、あんた今後、どうしていくつもりなんだよ。今日、明日、これからさあ」
カンちゃんは、元から丸い目をもっと丸くして目の前のお品書きをじいっと見た。
彼は考えてるんだ、ものすごい速さで。
「決まってないなら無理に言う必要ないぞ」
俺は、自分らしくない、しっとりした声でそんな言葉をかけていた。
カンちゃんは、反応しない。
マダムがカウンターに載せた太い腕を組み直す。
「瑪瑙ちゃんの言うこと、アタシもそう思う。決まってないなら決まってないで、別に恥ずかしくないと思うわよ。誰も明日の自分がどうなるかわからないし、ましてや自分の今後なんて、もとをたどれば所詮は根性論だもの。答えなんてないし、正解はすぐには出来上がらない。アテなんて気にしなくていいわよ」
「そういうこった」
何気なく反対側のタヒチを見ると、全く知らぬ顔でスマホのゲームをしてやがる。
てめえ、こういう事はおまえの本職だろ仕事しろよ。
「そうですね、今後は……もう、自分の身の丈にあった生き方をなんとか模索しなきゃなと、頭で思っているんですけど、それもなんかつらくて。ここまで来たのに、なんだかなぁって。踏ん切りつかないし、未来は怖いし、いろいろつらい」
「どの辺がつらい?」
「負けた、気がしますね。すごく」
一度詰まってから、きっぱりと語尾を締めた。
「負けたって、なにに?」
俺の質問に困った顔をしてきやがる。
「いや、なんというか、これっていう対象はないんですけどね、負けた気がして……はは、おかしいですよねこれも。なんかすいません。まぁ、あの……自分のやってきた事とか、自分の追い求めてきたものを否定されたような気がして悔しいです。そうすることがきっと、大人になるっていう事なんでしょうけど……どうしても受け入れられないんです。だって、じゃあここまでの事はなんだったのかなって……なりますからね……」
――都合のいいこと言ってんじゃねえよ――
腹の底の底で、思い切り怒鳴りたかった。
誰に?
「あんたいったいさ、何と競ってんのよ?」
何かの先から垂れた水滴が、この言葉だった。
俺の中の――
今までずーーーっと潤う事がなかったどこかが潤って、そこから出た水滴が――
「………………………………」
カンちゃんは、目を開いたまま固まった。
三十秒ほどして、唇を歪めてなにやら呟き始めた。
訥々と――




